現代人文社から出ている良書のこと、ではない。
最近、私が受任した事件に対し、とある弁護士Aから寄せられた苦言である。
A弁護士曰く、「その事件は許しがたい事件である」「よりにもよって(有力な刑事弁護人が)私選で受任するなど何事か」という。

この点、純主観的にいえば、受任したくない事件、(弁護士倫理に抵触しないけれども)受任すべきでない事件というのは、誰にしもあろうと思う。私の中でも、相談を聞くまでもなく或いは少なくとも相談を聞いた段階で、このような純主観的理由を挙げてお断りする類型は確かにある。究極のところ、私選弁護人は契約の自由があるので、応じる応じないは自由に決定できる。

しかし、普遍的、客観的に、受任すべきでない事件というものは存在しない。刑事弁護の理念からすれば、「善人」よりも「あんな奴ら」にこそ弁護が必要だ、というのが、素直な帰結になるだろう。「あんな奴ら」こそ弁護が必要なのだから、誰しも受任すべきでない事件というものは存在し得ないことになる。
A弁護士の苦言も、言ってしまえば、A弁護士の主観において受任すべきでない事件というに過ぎない、価値観の押しつけである。

また、A弁護士が考える「その事件」像が、受任すべきでないという結論を導いた前提部分において正しいという保障もない。A弁護士にとっては「凶悪な殺人犯」(だからといって受任すべきでないということにはならないのだが)かもしれないが、受任した弁護士としては犯人性を争うことになると考えているかもしれない。
職務基本規程の禁じる不当介入、また、合理的根拠無く誤った事件像を吹聴する観点からは依頼者に対する名誉毀損になり得ると言うべきだろう。

A弁護士は、私の分類では人権派弁護士である。献身的な刑事弁護を行うことでも知られ、そろそろ片手では数え切れなくなる程度に無罪判決を得ていると聞く。
その主観的な良心において苦言を呈されたことに間違いはないが、刑事弁護に対する理解は足りないな、と感じざるを得なかったし、(知り合いと言うことでの油断があるのだろうが)脇の甘い発言だと思う。

と同時に、この種の弁護士ですら、このように感じ、特定の事件を排撃しようとする、という危険な現象からすれば、況んや一般社会の感覚は尚更に厳しいものがあるだろう、ということを改めて痛感した。一般社会は更に厳しく「なんで、『あんな奴ら』の弁護ができるのか?」と排撃してくるだろう。なればこそ、刑事弁護士は、刑事弁護をする必要がある。

(弁護士 金岡)