刑事事件で、具体的な予見可能性、具体的な結果回避可能性の厳格な立証を求めていく議論に慣れていると、民事事件における過失論の「ぬるさ」に驚かされる。
未だに、民事と刑事の過失は異なると公言する裁判官もいるし、刑事事件で無罪になっている過失事犯が民事では有過失と判断される場合も知られている。

しかし、(事実の証明基準の違いはさておき)過失概念の中身において、民事と刑事とで違いを設けることは相当ではないだろう。刑事的にはどうしようもなかった事故だが、民事的には対処のしようがあった、などというのは意味が分からない。事実はどちらか一つでなければならない。
少し古い裁判官の論文で、民法上の過失と刑法上の過失の峻別についても論究した判例タイムズ300号、301号所収の「運行供与者責任と信頼の原則(上下)」(安田實・(当時)静岡地裁判事)を読んだことがあるが、「民事では損害の公平な分担の見地から、過失責任を緩やかに捉える見解が存在する一方、統一的に理解すべきだという主張も存在する」と指摘し、注意義務論から立論するなら統一的に解することになりそうであると論を展開し、前記二重の基準肯定説に対しては、「考えてみれば、刑事罰と巨額の民事賠償とで、どちらの負担が大きいかは一概に言えず、刑事罰の適用は慎重にする一方、民事賠償は緩和に命じて良いとするのは片手落(ママ)である」と、皮肉を効かせて論駁しているのが印象的であった。

というようなことを書きたくなったのは、仮退院した少年(15歳くらいか)が殺人事件を起こしたことについて親権者に過失責任を認めた福岡高判(2026年3月25日)を読み、その論理展開のひどさに驚いたからである。

裁判所HPに掲載された判決文はマスキング箇所が多く、仮退院時の少年の成績評価がどうであったかなど割と大事な部分が消されているため、少々もどかしくはあるが、読み取れた範囲で言うと、少年の衝動性、粗暴性は複数次の施設処遇でも改善せず寧ろ悪化傾向にあり、親権者は「その顕著な粗暴性や衝動性が根本的に改善される可能性が低いことを認識していた」と認定されている。
裁判所はこれを、重大な他害行為の具体的予見可能性に用いているのだが、その点は一応の前提とするとして、少年院のような専門性のある矯正施設で「その顕著な粗暴性や衝動性が根本的に改善される可能性が低い」のであれば、一私人である親権者にはどうにも改善しようなどないのだから具体的な結果回避可能性が欠ける、となりそうである。
しかし判決ではそうはならず、「仮退院後は、行動の自由度が増す反面、歯止めが効かなくなるおそれがあるから、加害少年が重大な他害行為に及ばないように指導監督することは必要不可欠であった」のに、親権者はそうするどころか少年の受け入れを拒否し(少年は落胆した)、少年は更生保護施設に入所し、すぐにそこを抜けだし、犯行現場となる商業施設をうろつく等して事件を起こした、という経過を認定し、もし親権者が、「加害少年を引き受けていれば、そのことが加害少年に被控訴人の指導監督に服する動機を与える機会となり、短期間のうちに生活圏から脱して重大な他害行為に及ぶことを防止できたと考えられる。」というのである。

少年院でも改善傾向がなく、更生保護施設をすぐ抜け出すような少年を、親権者が指導監督することで、具体的、現実的に、他害行為に及ぶことを回避出来た、という論理は一読して意味不明である。専門施設に無理なら、親権者にはもっと無理だろう。
高裁判決が「短期間のうちに」生活圏から脱して重大な他害行為に及ぶことは防止出来たと言いたげなのは、ひょっとすると、少年が短期的には親権者の監護に服したとしたならば(これ自体、全く論証されておらず裁判所の妄想じみた判断だと思う)、少なくとも今回この時、この場所での事件は回避出来た、と言いたいのかもしれないが、刑事分野ではそういう仮定を重ねた「個別具体的なその結果」の結果回避可能性を論じることは誤りだと確立している筈だ(黄色信号事件の最高裁判決をそう理解している)。重大な他害行為の具体的予見可能性に対応するのは、重大な他害行為の具体的な結果回避可能性であり、今回この時かどうかではなく、凡そ、重大な他害行為の具体的な結果回避可能性が証明されなければならなかった。

少なくとも刑事事件であれば、上記判示は物笑いの種でしかないと思う。少年院でもどうしようもない少年の受け入れを拒否した親権者が無責任であり、そちらに責任を負わせるのが公平だという、理論的ではない結論先にありきの、民事の悪い部分が露骨に出た醜悪な判決である。

(弁護士 金岡)