例の岡山地判のことでも書こうかと思っていたが、どうにもうんざりする、検察官の歪んだ「公益の代表者」観を垣間見たので、そちらを書いておくこととする。

一つは、検察官に上告されている事件の検察官上告趣意書である。
目撃証言の信用性が争われている事案であり、検察官は目撃証言の信用性を肯定する立場から上告趣意書を構成している。
それは構わないが、上告趣意書の締めの部分がひどい。
「原判決は・・利害関係のない中立的立場にある目撃者の供述の信用性をも否定し、被告人を無罪としたものであって、このまま原判決を確定させるならば、およそ正義は実現されず、また、今後、国民に捜査公判への協力を求めることも困難となり得る」と、このように書かれている(松本裕名古屋高検検事長)。

利害関係のない目撃者が頑張って捜査公判に協力したのに信用出来ないとは何事だ、そんなことをしていたら刑事司法や正義が実現しなくなる・・とは。こんなくだらない情緒的な主張を書く弁護人がいたら「そんなの書いても無意味だよ」と諭したくなる、無駄な記載であるが、当人は大真面目なのだろうか。
証明力が足りないものは足りないと言えば良い。それにより利益原則に基づく裁判という公益が守られる。そういう風には考えられないのだろうか。

もう一つは、最高裁判所が弁護士や検察官を招いて行ったとする保釈の研究会資料である(正確には令和7年度刑事専門研究会3と題するもの)。
検察官からは古賀由紀子検事が講義を行っており、それはそれで駄目出しすべき内容を多分に伴うので、そのうち、記事にしようと思っているが、こういう一文がある。
「保釈請求への対応を考えるに当たっては・・・保釈された被告人によって罪証隠滅行為が行われたために、被害者や参考人などの第三者に証人出廷等の新たな負担を負わせることがあるということについて、果たして国民の理解を得られるかという点をも踏まえ、慎重に見極める必要があるのではないかと思います。」

ここに「国民の理解」を持ち出すか?と思う。
その内容自体が得体の知れないものであるが、いかにも「これが公益」と言わんばかりの歪んだ価値観である。幸い、ここまでひどい反対意見を見たことはないので、いまのところ、真面目に反論を書く必要もなさそうなのが救いではある。
(そして古賀検察官には、そこまで「国民の理解」に通暁されているなら是非一つ、保釈に反対し続けて病没者まで出すことに「国民の理解」が得られそうかを考えてみることをお薦めしたい)

これらの主張に共通するのは、公益を僭称するエゴそのもの、ということだろう。

(弁護士 金岡)