タリウム等の名大生事件の名古屋地裁判決が各紙で報道された。複数の精神鑑定が飛び交っていた事件だけに無関心ではいられなかったが、その部分ではないところで「ぎょっとする」判決内容であったようだ。

毎日新聞の報道によれば、「山田裁判長は裁判員からのメッセージとして・・・また、公判中の弁護側主張に関し「心神喪失を理由とする無罪主張にこだわるあまり、量刑に関する適切かつ十分な主張がなかった。適切な弁護を受けていないのではとの意見もあった」と話した。」とされている。

無罪主張している弁護人が「有罪の場合でも刑は軽くして欲しい」と主張することの是非は、古くからある問題だが、基本的に否定すべきであろう。「罪に問われることはないが、刑は軽く」という主張は、それ自体が矛盾しており、無罪主張の足下を見られかねないし、もし依頼者が無罪主張を希望している場合に予備的とは言え有罪を認める発言をしようものなら、それこそ不適切弁護である。

もし上記判旨が事実であるとすると、少なくとも裁判員の1名は、弁護人の基本的使命を理解しないままに判決に臨んだことになる。無論、この裁判員は弁護人の公判活動に不信感を抱いていたのだから、弁護人の主張を適切に評価することもなかっただろう。おそらく弁護人は、有罪である場合も想定して、量刑上、反映されるべき事情を随所に盛り込んでいたはずである。ただそれを、「有罪でも刑は軽く」という分かりやすい形で表現することはしなかった(上記事情故にできなかった)と思われる。実務的には実に良くあることだ。
そのような分かりやすい形では表現されなかった量刑要素を、理解できず、理解できないどころか弁護人に不審を向ける裁判員に、裁判を行う資格はない。(今回の場合は無期懲役という重大な判決結果であったが、それを引くまでもなく)刑事裁判は、(どこぞのキャッチフレーズ「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」のように)気軽に思うままの判決をして貰えば良いような軽いものではない。

山田耕司裁判長は、この誤解を放置したのだろうか、それとも同調したのだろうか。わざわざ公判廷で言及したからには、「まずい」とは思わなかったことは確かだろう。否、寧ろ、なるほどと思ったから、わざわざ述べたのだろう。とすれば、裁判長もまた、失格である。
本来であれば、評議でその間違いを悟し、憲法・弁護人の基本的使命への理解を求め、その裁判員が納得しないなら憲法に従った公平な裁判を期待できないと言うことで裁判員から除外しなければならなかったと思う(裁判員法43条3項、41条1項4号、9条1項で解任できる)(逆に、裁判長や裁判員が本気で不適切弁護だと思うなら、裁判所の後見的機能を発揮し、国選弁護人を職権で付すこともできるのであるから、そうすべきだった、とならなければなるまい。)。少なくとも、せめて弁論再開し、弁護人におのが立場を説明する機会を与え「無理解」を解かせることは不可欠だったろう。

裁判所が徒に弁護活動を不適切視させる発言をすること自体、如何なものかと思うが、不幸中の幸い、不見識にも山田耕司裁判長がわざわざ述べてくれたおかげで、裁判体の問題性が浮かび上がった、ことだけは、お手柄か。

この問題は、控訴審で十分に究明され、判決の正当性を争う理由として必ず用いられるべきである。(早くも趙誠峰弁護士がウェブ上で同旨を述べておられるようだが)少なくとも憲法37条1項「公平な裁判所」(及び裁判員法9条1項「公平誠実」な裁判員)による裁判と言えるか、また、最低限の素養(理解)を欠く裁判員が裁判体に加わることの是非が、問われるべきと考える。

(弁護士 金岡)