1.件名に関し、まずは遅まきながら「那覇地方裁判所の警備に関する会長談話」(沖縄県弁護士会本年3月21日付け)を取り上げたい。
米軍基地建設に反対する抗議活動に関連する刑事事件が那覇地裁で行われた本年3月17日、裁判所は厳重警備体制を敷いていたが、「裁判所の敷地内外から、裁判所前に駆けつけた市民に対して、動画撮影・写真撮影が継続的に行われていた」という事態を受け、表現の自由を萎縮させ、また、(おそらく京都府学連事件)最高裁判例の示した公道上の撮影要件を満たさない疑義があるとして、このような撮影行為について裁判所に再考を促すものである。

2.裁判所敷地内の撮影は、庁舎管理権により原則禁じられているはずであるから、畢竟、警察が許可を取り、犯罪と思われる場合の撮影を敢行したのであろう。裁判所からすれば、適法な捜査を行う限りで許可することに問題はなく、もし違法捜査になった場合は警察の責任だ、という立場なのかと想像される。
しかし、仮に「今回ばかりは」とたまりかねた一市民が、沖縄の声を届けるために裁判所まで足を運んだところ、捜査機関の監視下に置かれ、場合によっては偶然的に被写体になるかも知れないとなれば、そのような表明行為は萎縮するだろう。そうすると、裁判所は、憲法21条よりも捜査の都合を優先させてしまっており、本来中立であり、憲法・法律・良心にのみ拘束される裁判所が、捜査機関の都合による監視に加担しているとの誹りは免れない。非常に残念というか、浅はかな判断である。

3.次に、共謀罪との関係にも触れねばならないだろう。
騒乱罪は共謀罪の適用を受ける法案であるから、裁判所前に詰めかけた集団中に騒乱準備行為が確認できれば、「騒乱共謀罪」を適用できることになると解される。勿論、準備行為を実際に行わなくても共謀していれば罪に問うことができ、而して共謀は内心領域の問題であるから、外からは分からない。
前記「一市民」が、外形的には共謀集団内におり、かつ、一部に準備行為が確認できたとして、それだけで現行犯逮捕できてしまうわけである。これが治安維持法でなくてなんなのだろうか。
各紙で「有識」者が意見を戦わせている中、賛成派は「濫用は有り得ない」というのであるが、治安維持を名分にする側は、良かれと思って行きすぎを行うのが常である。咎められやしないと確信して、或いはどさくさに紛れて、ということもあるだろうし、ここまでは許されるはずだという誤った判断でやり過ぎることもあるだろうが、このような行き過ぎを防げると断言することこそ、有り得ないと言わなければならない。無罪を争えば良いとか、国賠をやれば良いとか、そんなことは一市民にとっては過度の負担であり(というより誰しも、どこまで筋を通せるものか、その時々の事情に左右され保証の限りではないだろう)、なんの足しにもならないから、馬鹿げた意見である。
そして、濫用がありうるというだけで、現場には萎縮効果が生じる。それもまた濫用的効果なのである。

4.なお、「濫用は有り得ない」意見に対して、もう一つ言い足すとすれば、例のGPS問題のその後である。
最高裁が違憲捜査と断じたからには、違憲捜査の全容を解明し、政府・警察の長が再発防止の徹底を含む公的な謝罪を表明し、取り付けられた対象者に対し憲法違反があったと謝罪して回るのが筋であろうが、まったく、その気配もない。
寧ろ、「高裁判例が分かれるぐらいなのだから最高裁前は悪くない」とでも言い出しそうな感じである(というか言っている。後記、法務大臣答弁参照。)。
「法の不知は許さず」であり、「自宅」に無令状で立ち入ることを繰り返しておきながら「悪いとは分からなかった」が抗弁になる筈もないが、政府・警察の人権感覚(遵法精神)は、この程度であろう。
してみると、違憲捜査を組織的に行っておきながら、その償いも付けられない組織に、「濫用は有り得ない」などと信頼を寄せることは、まことにどうかしている、と言うべきである。
国会では、GPS最高裁判決後、GPS捜査と共謀罪を関連付けた質疑が若干ではあるが行われている(例えば藤野保史議員、本年3月21日)。金田法務大臣が「我が国におきましては、裁判所による審査が機能しておりまして、捜査機関による恣意的な運用ができない仕組みとなっております。また、捜査機関内部におきます監督の仕組みや民事上の国家賠償制度など、事後救済制度が充実をしております。それが捜査機関の権限濫用を抑止する機能も果たしているのではないか、このように考えておる次第であります。」と答弁している。「強制処分法定主義を軽視してきたといったような御指摘は当たらない」という答弁もある(本年3月22日)。反省もないし、なにもない。荒唐無稽な答弁である。

(弁護士 金岡)