この事件を2度取り上げたからには、大法廷決定について一言二言、述べないわけには行かないだろう。既に裁判所HPにも掲載されているが、平成30年10月17日付け大法廷決定である。

全面的に駄目な決定で、救いがたい内容である。
既に多くの批判が為されているので、個人的に関心を持つところを中心に挙げると、
1.報道前提の私的ツイート、という表現行為の評価、
2.私的ツイートが国民にどのように受け止められるかという事実認定、
3.表現の自由の制約原理の検討が皆無、
4.審判対象不特定の手続違反、及び関連して、「余罪」を主として処罰した手続違反、
ということになろうか。
特に手続違反の問題は、「第一審且つ終審」である大法廷においては、「第一審且つ終審」に相応しい厳格な手続保障でなければならないことを思う時、致命的であり、この低水準の裁判官が最高裁判所を牛耳る本決定こそ、裁判所に対する国民の信頼を損ねると言っても過言でなかろう。

【1.報道前提の私的ツイートという表現行為の評価】
決定は、「判決が確定した担当外の民事訴訟事件に関し,その内容を十分に検討した形跡を示さず,表面的な情報のみを掲げて,私人である当該訴訟の原告が訴えを提起したことが不当であるとする一方的な評価を不特定多数の閲覧者に公然と伝えたもの」という。

報道前提で私見を述べることの自由について、正当な評価が与えられていない。
そもそも担当外の事件の裁判記録を読み込む権限などないのだから、決定の指摘に従うなら、私人として確定記録の閲覧申請をし、記録を読み込む他ないが、そういう表現行為以外の裁判批評や意見表明が許されない、等と考える余地はないだろう。巷間、一般市民から法曹まで、報道前提の論評はウェブ上にも溢れているが、それとの均衡~裁判官が私的に行うことが許されないこと~はどう考えられたのだろうか。
次項とも関わるが、場面場面で、その表現行為の言わんとするところの伝わり方は変わる。特にウェブ上、しかも字数制限が所与の前提であるtwitterを用いた表現行為の伝わり方について、全く筋違いの捉え方をしていると思われる。

今回の決定によれば、不特定多数に伝播しうる環境で、裁判官が、気楽に発言することは不可能になる。例えば弁護士との勉強会で裁判官が発言すれば、その弁護士が伝播させてしまうことはあるから、気楽な発言は出来なくなるだろう。
某所長経験者の裁判官と某研究会で御一緒した時、「本音では裁判官の多数は裁判員裁判なんて反対なんですけどね」とぼやかれたことがあるが、そういうのも、「懸命に裁判に協力する市民の誠意をないがしろにする品位を害する行状」とでも言われかねまい。
理解力に欠ける上に、甚大な萎縮効果をもたらす、悪しき判断である。(我々弁護士も、私的にも品位の維持を求められるが、してみると、確定記録を閲覧せず報道など前提に論評し、それが当事者の感情を害した時、同様に懲戒処分の対象になるのだろうか)

【2.私的ツイートが国民にどのように受け止められるかという事実認定】
決定は、「裁判官が,その職務を行うについて,表面的かつ一方的な情報や理解のみに基づき予断をもって判断をするのではないかという疑念を国民に与える」という。

正気か、と思わされる。
あくまで私的なツイート上の、それも報道前提とした意見である。それは、そのような場で、そのような前提に基づいて、行われた、と受け止められるものである。twitterでざっくばらんに一刀両断的な批評をする裁判官がいたからといって、「この裁判官は、記録を無視して思い込みで判決を書くかもしれない」と心配するだろうか。
ちなみに言えば、記録や理屈を無視して、思い込みで判決を下す裁判官は、まま見受けられる(先日紹介した仙台高裁に破棄された盛岡地判など、訴因を無視して無理やり有罪をこじつけているのだから、その最たるものだろう)。「この裁判官は、記録を無視して思い込みで判決を書くかもしれない」という心配は、本丸の判決でこそ、余儀なくされる。私的なツイート如きで、そのような捉え方がされる等と評価することは、箍が外れている。

【3.表現の自由の制約原理の検討が皆無】
決定は、「なお,憲法上の表現の自由の保障は裁判官にも及び,裁判官も一市民としてその自由を有することは当然であるが,被申立人の上記行為は,表現の自由として裁判官に許容される限度を逸脱したものといわざるを得ない」という。

表現の自由の制約原理に関する憲法上の議論をまるで無視し、おまけの付け足しで「逸脱したものといわざるを得ない」といわれても、議論にすらならない。いつから、第三者の感情を害する表現行為がそれだけで「逸脱」として憲法21条の保護下を離れることになったというのか。このような説示は、失当といわざるを得ない。
それ以上に言いようもなく、唾棄すべきと言う評価がしっくりくる。

【4.審判対象不特定の手続違反、及び関連して、「余罪」を主として処罰する趣旨と解さざるを得ない手続違反】
決定は、「・・2度にわたる厳重注意を受けており,取り分け2度目の厳重注意は,訴訟に関係した私人の感情を傷つけるものである点で本件と類似する行為に対するものであった上,・・」等として、戒告という量定を正当化する。

この点、まず申立書は、「本件ツイートが、もとの飼い主の感情を傷つけたものである」ことが所定の懲戒事由に該当するとし、審問期日においても、最高裁は、「申立書は防御するに十分」として申立裁判所への釈明を拒否している。
従って、主たる審判対象は「本件ツイートが、もとの飼い主の感情を傷つけたものである」ことで戒告処分が正当化されるかである。

しかし、実際の決定によれば、前記の通り、「取り分け2度目の厳重注意は,訴訟に関係した私人の感情を傷つけるものである点で本件と類似する行為」(このようなこじつけ的な類似性の評価もどうかと思う)と強調した上で戒告相当の量定を導いているので、「2度目の厳重注意事件」の事実関係や、これが本件と類似するかという点もまた、審判対象となっているといわざるを得ない。
このことは、岡口判事が懸念されて求釈明を申し立てられた正にそのとおりに展開していると言える。つまり、主たる審判対象の裏に、同価値以上の審判対象が隠されており、その点に不意打ちを受けたと評価する他ない。
なお、補足意見は更に露骨である。補足意見によれば、「中でも,2度目の厳重注意を受けた投稿は、・・・それ自体で懲戒に値するものではなかったかとも考えるものである。」とした上で、「本件ツイートは,いわば『the last straw』ともいうべきものであろう。」と結んでいる。つまり、本件ツイートはそれ時単独では到底、戒告処分に及べないものであり、主たる根拠は「2度目の厳重注意」の方である、と明確に述べているのである(本件ツイート単独で戒告処分に及べるなら、殊更に、「2度目の厳重注意」事件が懲戒すれすれだ等という余事記載をする必要はないからである)。
このような補足意見が平然と提出できるような議論状況であったのであり、審判対象不特定の手続違反が明らかである。

裁判官の身分保障の強固さに照らせば、それへの懲戒手続に要求される手続は憲法31条が準用されると言える。まして、「第一審且つ終審」であり、誤判に対し、どこに救済を求めることも不可能な手続である。それほどの手続に見合った、後顧の憂いなき防御を可能にするだけの審判対象の特定・限定がされず、それどころか、主役は「2度目の厳重注意」事件だと露骨に示唆する本決定は、決して大げさではなく、憲法史に残る歴史的汚点と考える。

なお、前記補足意見によれば、本来、一要素としての考慮しか許されないはずの「2度目の厳重注意」事件が主として考慮されている。このことは、「余罪を実質上これを処罰する趣旨で量刑の資料に供した」かどうかという、著名な刑訴法上の論点を想起させる。審判対象から明確に外された、注意処分歴という「余罪」を、「懲戒ぎりぎり」として、この際、処罰したと言える本決定は、この点でも手続違反である。

【司法救済の欠如】
最高裁大法廷に、憲法21条、憲法31条に反した違憲無効な戒告処分をされた場合、司法救済を求めるだけ虚しいと言う他ないが、それでも、「第一審且つ終審」であるため、不服を申し立てる余地がないと言うことには違和感を禁じ得ない。
最高裁大法廷だって間違いは犯す(幾つもの最高裁の確定有罪が、その後の再審で覆されているのだから、言い訳は出来まい)。
不服申立の道を開いておくか、そうでなければ、厳格な上にも厳格な手続保障を行うか、どちらもないこの手続は、その意味でも違憲違法であろう。

(弁護士 金岡)