この5月で裁判員裁判制度「10周年」となり、その手の特集も目に付くし、取材を受ける機会も増えた(「10年」を節目と騒ぐ感性は理解できないが注目が集まるなら良いことだろう)。メディア関係者がどういう思惑から私を取材対象にするのかは推測の限りでしかないが、一般論の限りであれば取材をお断りする理由も無いし(他方で、個別事件の取材は一切、お断りする)、色々お話しする過程で自分の考えを深めることもできようものだと思う。

さて、裁判員裁判制度導入と同時代的に、例えば証拠開示の拡大や、期日的な意味でも証拠の範囲的な意味でも集中的な公判の実現等の望ましい方向への改善が見られたことは事実である。しかしこれらは、多かれ少なかれ、改善すべきことが叫ばれていたのであり、裁判員裁判という有無を言わせぬ圧力が実現を早めたとは言え、裁判員制度自体の長所とは言えない。

他方で、裁判員裁判制度には本質的な欠陥があるように感じる。

例えば審理計画の墨守。人間の運営する裁判が完全無欠であるわけはないが、業界外から人を巻き込む都合上、審理計画を守ることに相当重点が置かれていることは否定しようもないだろう。その結果、「この証言が出たからには仕切り直し」のような展開はほとんど期待できない(審理計画墨守による伝聞例外の安易な採用を否定した東京高判平成30年3月30日は教訓的だが氷山の一角に過ぎない)。

また、反対尋問権の保障を代表とする手続保障の理念や黙秘権保障について、良くて知識ゼロ、それどころか誤解したまま判断に加わる危険も指摘できる。裁判官が手続保障や黙秘権保障について十分理解しているとは言えないだろうし、あからさまに黙秘権行使に反発する裁判官もいるが、少なくとも「その種の議論を知らない」と言うことはないから、無知のままに「自分の考えで」判断に加わられることの危険性の大きさとは比較にならないだろう。裁判官の水準に引き上げようと思えば情報過多に陥る危険を考えないわけにはいかず、泣く泣く、本質的な議論を切り捨てる羽目にもなる。

専門的な議論が困難、という問題もあろう。当方が理解し準備するのに相当数の文献を渉猟し読み込んで漸く理解に至ったものを、短時間で同水準に理解しようなど虫が良すぎる話であるが、さりとて、裁判員に専門的な文献を読み込ませようなどと言う話にはならない。まだしも、読み込もうとする機会のある(例えば自宅に持ち帰ってでも)裁判官の方が深い理解を期待できるのではないか。

深い理解と言えば、尋問調書もなしに弁論を出すというのも頂けない。余りに不完全な反訳と録音体を頼りに短時間で弁論を構成することは、果たして証拠裁判主義に忠実と言えるのだろうか。

このように考えてみると、まだ実体験を通しても、裁判員裁判それ自体に良いところを感じない。少なくとも無理してまでやるほどのものではない。法廷の活性化、とも言われるが、あるべき活性的な姿があるなら、それは裁判員裁判でなければ実現できないものではなかろう(賛否はあれど、やろうと思えば、裁判官裁判で尋問の翌日に最終弁論を出すことも可能である。ただ、尋問調書を仔細に点検し、丁寧に立論したいから、そうしないだけである。)。市民の良識に基づく判断ともいうが、ここまでで「これぞ市民の良識」(にして手続法的な正当性も損なわれていない)と快哉が叫ばれるような裁判例があったとも思われない。

(弁護士 金岡)