予め断ると、以下は「手抜き弁護」であり、殊更に吹聴したいものでもない。時期は特定しない実例だが、やはり書いておこうと思う。

夜7時も過ぎて帰宅後、検察官から抗告が出た、と裁判所から連絡が入る。時間的に、検察官の申立書を閲覧するまで30分、もし反論書面を出すなら更に4~50分はかかるだろうという距離感覚。
「反論の要否の検討、反論書の作成に、合議まで1時間30分ほど、お待ち頂きたい」と要求したのは当然だが、裁判所の方では「反論の提出には及ばない」という。

さて、この場合、「反論の提出には及ばない」をどう受け取るかだが、実際的に言うなら「抗告棄却は見えているので大丈夫」と言うことなのだろうけども、「議論は出尽くしていると思うから判断の機は熟している」と言うだけのことかも知れないと言えば、後者を否定する理由も無い。
そして後者の場合、「議論は出尽くしていると思うから判断の機は熟している」という裁判所の評価が宛てにならない場合は、ままある。なにせ、昔のことだが、ある右陪席が「閲覧に来なくても検察意見は短いので今から要旨を説明してあげますよ」と親切に検察意見を教えてくれたのが、あとで謄写したら全く違っていたという恐ろしい事態を経験したこともあるほどだ(そしてこの時、保釈請求は却下された。一生忘れないだろう出来事の一つと言える。)。まして、意図的でなく評価が誤っていることは、より多かろう。

話を戻すと、「反論の提出には及ばない」に甘んじ、「では判断を宜しく」と引いてしまうことの是非である。
結論的に、多くの場合は抗告棄却で事なきを得るのだろうが、それは最善を尽くしたと言えるものではなかろう。検察の申立書を閲覧し、愚にもつかない繰り返しはそのことを指摘して判断を経ていることを強調し、もしも新たな主張があれば一通り反論を提出するくらいのことをして、原決定の裁量判断を擁護し、初めて最善を尽くしたと言えるはずだ。
ましてや、「議論は出尽くしていると思うから判断の機は熟している」の方で、「原決定を取り消しました」とやられても、それが特別抗告理由になるはずもなく、臍をかんでも時既に遅しだ。

くだくだと書いたけれども、要するに、「反論の提出には及ばない」に甘んじ、「では判断を宜しく」と引いてしまうことは、多くの場合、害はなく、楽することが出来るが、ひょっとすると、出すべき反論を出さないまま裁判所に首を出したようなことになっているかもしれないし(閲覧しない以上、その可能性は否定できない)、百に一つでも、反論しないまま逆転負けを喰らうかも知れないから、最善を尽くしたとは言えない。
一旦帰宅してから(多分原決定が維持されるだろうというのに)走り回ることは気が進まないとしても、そのような悪魔の囁きに耳を貸すべきではなかった、と後悔している(この事案は原決定が維持されているが、それでも気が晴れないままだ)。

チェスの王者、カスパロフ氏の宣わく、「つねに最善の努力をすることを目指し、手を抜くのは事実上の失敗だと認識することが必要だ」とのこと。
結論は検察抗告棄却でも、弁護活動は事実上の失敗だということだ。

(弁護士 金岡)