「子を持つ親として許せない」というsensationalな見出しで面白おかしく報じられてしまっているが、西日本新聞本年3月12日配信記事によると、「同居する小学6年の女児に対する暴行などの罪に問われた30代の男=福岡県=の公判が12日、福岡地裁であった。被告人質問で、川口洋平裁判官は『言うべきか迷っていたが率直に言う』と切り出し、『感情を入れないようにしていたが、私も子を持つ親として許すことができない』などと述べた。」という。
記事は続けて「識者は『判決前の裁判官の発言としては異例』としている。」とし、識者の1名として「元裁判官の陶山博生弁護士は『裁判官は法律と良心に基づいて判断するべきだ。説得力のある言葉を伝えようとしたのだろうが、裁判官のあるべき姿からは逸脱している』と話した。」と紹介している。他の識者の意見も否定的である。

これは実に難しい問題を孕む。条件反射的に忌避申立に値する、と言わなければならないが、それでも擁護すべき部分がある。
以下、考えてみたい。

「感情を入れないようにしていたが、私も子を持つ親として許すことができない」という思いに囚われた裁判官に裁かれなければならないという事象は、「偶然にも子を持ち、子に愛情を注ぐ裁判官を引き当ててしまったがために、許すことが出来ないという感情任せの不利益な裁判を受ける権利が具体化している」ということを意味する。
子どもを持たない、あるいは子どもに思い入れがない(酷薄と言うより、既に子育てを終えているとか・・)裁判官と比較して明らかに危険な事態であり(なお、記事によれば、実刑求刑に対し弁護人は執行猶予を主張している)、手続外在的な要因により公平な裁判が期待できないということになる。
あわせて、陶山氏の指摘にもあるように「良心に基づいて」(憲法76条3項)ではなく個人的な感傷に基づいて裁判が行われようとしていること、個人的な感傷を切り離すことに失敗していることを自白していることからも、憲法76条3項に反した事態に陥っていると言うほかない。
これだけの材料が揃っており、実刑か執行猶予かの境目に立たされている以上、弁護人の役割としては、最早、条件反射の領域で、依頼者のために当該裁判官を排除し、危険事態を解消すること(つまり忌避を申し立てること)になろう。

こうみると、なにも難しい問題のようには感じないかも知れない。

しかし、私はかねてから裁判所流「公正らしさ」論に懐疑的である(本欄2018年9月20日付け記事でも取り上げた)。
没個性的で能面のように黙然としている裁判官は、一見すると公正に見えるが、蓋を開ければ内心では被告人に対する嫌悪や怒りが渦巻いているのかも、しれない。ポーカーフェースに長けていることと、実際に公正であるかは別論である。思想信条、経緯来歴を丸裸にして初めて、公正な審理に堪えうるかの検証のとば口に立てるのではないか、と考えられるところである。
公正な裁判を担保するため、どういう裁判官に裁かれているかは知らしめられて然るべきだとすれば、今回のような発言は願ってもない好材料である。そして、裁判官側からも、どういう裁判官が裁いているか、知られている上で、なお、公正さにおいて事後的検証に耐える裁判を志さなければならないとすると、勢い、慎重にも慎重を期した判決をせざるを得なくなるはずだから、「こんなのは実刑しか有り得ない」の類の、粗雑な、感情任せに重罰に付するような乱暴な判決はできまい。結果、判決の内容は相対的に向上するはずである。

また、件の裁判官のように、自身を見せてまで被告人に考えを投げかけ、胸襟を開いて働き掛けよう(これも陶山氏の分析に賛同するが、どこまで計算ずくかは別にして、裁判官の人間くさいところも見せて被告人の感情を揺さぶり、変わるところを見たいという技術に相違ないだろう)というのは、誠意のある裁判と評価できる。
実刑にされた上で、説諭で冒頭のように発言されても、余りにも言い訳くさく、また不公平感が先立つので、素直には受け止めづらいだろう。それよりも被告人質問段階で厳しい言葉をぶつけ、事と次第では判決前にもう一度、職権で被告人質問を行い、変化を見極めた上で、それでも実刑已む無しか、ぎりぎりの判断をしたい、というような構想だとすれば、それは、裁判官の姿勢としてはかなり極上の部類に属すると言えるだろう(件の裁判官が、他職経験で弁護士経験があることが関係しているのかどうかは分からない)。

このように考えると、寧ろ好ましい訴訟進行であり、また、どういう裁判官が裁いているかという厳しい目に晒された上での、これに耐え得る刑事裁判が実現することもあり、何れも肯定的に評価すべき話の筈なのに、条件反射の領域で忌避を申し立てるべきだという、良く分からない事態である。

言い方の問題だったのかも知れない。
「子を持つ親の気持ちを想像したことがあるか」
「子を持つ親はこういう気持ちになるのではないか」
「こういうときに子どもへの愛情を感じたのではないか」
等と、それとなく、さりげなく、話を持っていけば、このように、面白おかしく報じられるようなことはなかったのだろうし、(個人的な思い入れという次元ではともかく)裁判官の着眼点を知らしめた上での、それなりに開かれた裁判になった。結論、思いがほとばしりすぎて勇み足、もう少し方法論を工夫すべきだった、というところだろうか。

無論、被告人側には、全てを踏まえても忌避する権利はあるだろう。上記のように思案し深慮遠謀で忌避を見送ることも訴訟戦略だが、こんな危険な思い入れを持つ裁判官は御免被る、というのもまた、被告人の裁判を受ける権利の一つだ。どこまでいっても、忌避に値するが好ましい訴訟進行、という評価にせざるを得ない。

(弁護士 金岡)