書棚の奥から出てきたので久々に読み直してみた。
司法修習時代に法曹一元に熱心な先生から勧めて頂き読んだ記憶である。
当時も、それなりに感銘を受けたのだろうことは保管方法から偲ばれるが、改めて読み直すと、今だからこそ頷けるところも多い。

「正直にいって、裁判当事者への便宜や権利の尊重の問題と、裁判官を含む裁判所職員の労働条件の問題が場合によって衝突することも、現場の裁判官の悩みの種なのである」「私は深夜の令状処理でも翌朝回しにしないようにして・・・結局、その裁判所でそのように原則的な処理をしていたのは私だけ、ということが後になってわかったのである。・・職員たちは深夜の仕事についても進んでつとめてくれ、そのかわり、翌日の半日の休養を認めてもらうという妥当適切な解決となった」(158~159頁)

本欄でもよく取り上げる、時間外受付問題に通じる問題があろう。原則的なことをいえば、弁護人が望む限り何時でも、担当裁判体に連絡がとれ、また、勾留状謄本にせよ準抗告棄却決定書にせよ、望む限り何時でも入手できるべきであり、なるほど職員配置問題などで苦労を伴おうが、だからといって原則を曲げてはいけない。現有勢力では被疑者被告人の権利が制約されてもやむを得ないなどと開き直るのではなく、人員を倍増させるとか、そういった工夫をすればよい「だけ」である。
そのように邁進しておられた安倍元判事が裁判官の中では孤立させられていた(御経歴は、改めて言うまでもないが、見事なまでの支部周りである)。干される歴史が積み重ねられた今の時代、尚更であろう。

「令状審査による、裁判所のチェックがまるで働いていないのである。指摘したいのは、このことに象徴される、現在の裁判官の、人間の拘束の辛さ、むごさに対する無理解、不感症なのである。」(165頁)

氏は、上記を指摘した上で、自白偏重の裁判とも密接な繋がりがあるとの論を展開されている。現代的には、自白偏重というよりも、被告人の主張には水も漏らさぬ合理性を要求する一方、検察側証人(とりわけ被害者)についてはあの手この手で救済するという、根強い有罪推定という方が正確であろうが、ともあれ、こういった事態は20年を経過しても(本書の初版は2001年である)大して変わっていない。
黙秘している→どのような言い分を繰り出すかわからない→なにをしでかすかわからない→ありとあらゆる場面を想定して罪証隠滅を疑うべき相当の理由を認める、という構図が改まらないことは、もはや慢性疾患というべきことが実証されていよう(そういえば最新の刑法学会誌で、現職裁判官が、黙秘の場合に上記のような発想で広く勾留される現象について考えていくべき趣旨の発言をされていたが、遅すぎだとしてもやらないよりはましである。果たして、どういううねりに繋がるだろうか。)。

「犬になれなかった裁判官」の副題が「司法官僚統制に抗して36年」であるから、傾向的な書籍だと、裁判所受けはしないのだろうけども、手垢にまみれた実務が20年も前からまっとうに批判されているということを知って、それでも維持しようと思えるのか、裁判官こそ読むべきだろう。

(弁護士 金岡)