「安否気遣い的な一回的接見」と書いてみたが、要するに、「知り合いが逮捕されたが状況を知りたいので一度接見に行って様子を窺ってきて欲しい」といった類いの接見要請を引き受けて良いか、という問題である。

敢えて特徴的なところを纏めると、次のようになろうか。
全く受任に繋がらないわけではないとしても相対的に受任要請は少ないだろう。また、依頼元は通常、弁護人選任権がない(事件本体の弁護士費用を負担する意思がある場合と、あくまで一回的な接見費用の限りでしか負担意思がない場合とがある)。
ひどい時には、自身が共犯者に上がっていないか、自身の関与が供述されていないかなど、専ら依頼元の利益のために探りを入れるべく接見要請される場合もある(が、通常、弁護士にはそこまで分からないことも多い)。

このような接見が、果たして刑訴法上の「接見」と言えるのか。それとも「なろうとする者」の濫用事例なのか。特に、自分で一般面会してきたら?とはならない接見禁止事案で先鋭化するように思われる。

「なろうとする者」の濫用問題については、本欄2021年1月27日で取り上げたことがある。要点を纏めれば、客観的な受任可能性と主観的な受任可能性、何れか一方でも欠けている場合は濫用に当たるだろうということである。また、専ら外部交通に特化し事件本体に関わらない場合も、スクリーニング論の立場から濫用に当たるだろうと論じたところである。
そこで、「安否気遣い的な一回的接見」について考えると、客観主観共に受任可能性はさほど高くない。加えて、スクリーニング論の立場からは事件本体について殆ど何も知らないも同然である。倫理的に考えて、避けることが望ましいように思われる。
しかし、この種の接見に一定の需要が残るのは、「国選が何も動かないっぽい」「(真心から)弁護士を代えろと勧めてやりたい」というような趣旨で、(真面目な)法律相談の要素が伴う場合も存外あるからである。選任権者からの依頼でなくとも、「何か困っているようだったら外で動くよ」という応援団との橋渡しや、その前提としての御用聞きであれば、これを「接見」と言って良いことは当然であろう(最終的に親族との契約にするとしても、弁護人交代に繋がる契機となることは身を以て体験している)。
結論、当該刑事事件に関する法律相談の要素が含まれており、客観主観共に受任可能性がゼロでは無いのであれば、基本的に濫用事例ではないと解すべきである。なお、当然のことながら、「口封じ」や、罪証隠滅等の契機を孕むと疑われたならば、そのような場合は断らなければならない。従って、赤の他人にどうして費用負担までして弁護士を派遣したいのかは、確認する必要がある。

このようなことを考えたのは、偶々、遠方への「安否気遣い的な一回的接見」を頼まれたので地元の弁護士に御願いしようとしたところ、立て続けに断られてしまったからである。接見だけの依頼は取り扱っていないとか、選任権者以外からの依頼は受けないなどと説明を受けたが、それが倫理的に筋の通った考え方であることは頷けるものがあり、我が身を省みて考え方がずれてきているのだろうか?と不安にもなったものだ。
しかし、「口封じ」や、罪証隠滅等の契機を孕むと疑われたならば格別、そのような事情もないのに無碍に法律相談を断るのも、刑事弁護的には頂けないし、現弁護人の側に非がある形で外部交通が機能不全である場合もあろう。継続的に「なろうとする者」で通い続けるのではなく一回的な故に、寧ろ、法律相談としての正当性を認める必要があるのではないかと考えられる。

(弁護士 金岡)