良い方の話題1つと、良くない方の話題2つを通して、件名について思うところを述べてみたい。

その1。平成27年3月19日、遺族年金訴訟(不支給処分取消請求)で勝訴した。名古屋地裁民事9部である。民事9部では、平成23年1月(取消訴訟)、平成26年8月(国賠~このことはかつて、本頁内で報告記事を掲載した~)に続く勝訴。
しかし、である。この案件では、こちらの立場からすると国側が結審段階で従前と明らかに異なる主張を提出し(その中には、詳述は避けるが“この程度の家庭内暴力は受忍限度内”などという唖然とする主張も含まれていた)、反論の機会を要求したのに容れられず結審を強行されたため、裁判長に対し忌避を申立て、その特別抗告審審理中に判決が言い渡される(執行停止効は即時抗告までしかない)という展開をたどった。
勝訴判決を受けて、忌避を申し立てられながらも公正に裁いた、と裁判長を褒めるべきだろうか。それは結果論というもので、強引な訴訟指揮に対する非難を些かも弱めるものではないだろう。訴訟当事者の納得を得つつ、適正な訴訟指揮で審理を運営することができなければ、判決結果がどうあれ、裁判官として最低の評価を免れないと思う。

その2。その翌日の20日、無罪主張の刑事事件で有罪判決を受けた。リサイクルの過程で幾重にも篩った結果、残った、微量の異物が混入した土の廃棄物性を争った事案である。論点は複数あるが、ここで取り上げたいのは、県の職員が(記憶で要約すると、例えば)「木くずなどが混入していると、腐って地盤に隙間ができ、地盤沈下したりする」から、混入土は有用性がない、等と証言し、裁判所もこれを採用した点である。弁護側は、「自然の土でも、葉っぱや木の枝が混入して、腐ったりするだろうけど、だから危険とは言わない」「県の認可したリサイクル埋め立て資材でも不純物が一定許容されている」等と反論していたが、裁判所は、一切、取り合わなかった。
弁護側から見れば、形式的な理屈をこねているだけで、全く説得力を感じない。論破するのではなく、無視。この仕事をしていて不本意な判決を受けた場合、しばしば、「裁判所は、不都合な事実は無視する」と毒づくのであるが、まさにそれである。上記反論が取り合うまでもない反論だとは思わない。有罪判決が組み立てられそうな部品を拾い集めるのだけはお上手ですね、という感想である。

その3。これは、つい昨日の出来事である。「これこれはAという実験結果です」という報告がされた官庁審議会の議事録について、「A」を証明する上で、刑訴法323条1号書面として採用できるかという問題である。刑訴法に明るい方ならお分かりの通り、立証趣旨によって伝聞性の判断が異なるという問題である。
裁判所は、「公の書面だから1号書面である」と述べた。まさしく、Aという実験結果が報告されている事実との関係では、公の書面であろう。しかし、Aという実験結果そのものは、どこの誰が実験したかも、どのような実験だったかも不明であり、故にそれが正しいのかも不明であり、公ではない(反対尋問を不要とするほどの情況的保障がない)。従って、Aという事実を証明する上では、公の書面ではない。これが弁護人の立論である。この立場から異議を出したが、「公の書面」と繰り返され、採用された。
情けないことに裁判所は、採用にあたり、(記憶で要約すると)「Aの事実を認定する上での証明力は個別に吟味すべきである」と述べている。・・どこの誰がどのように実験したかも不明であり、それが正しいのかも不明な実験について、その結果が正しいと言えるかについて、どうやって個別に吟味するのだろう。裁判所は、伝聞例外で採用することの問題性を理解している。それでも採用したい、そこで、証明力は慎重にやりますよという言い訳付きで採用した。そうとでも理解するしかないだろう。そんな言い訳をするくらいなら、堂々と、理屈通りに判断すればよいだろうに。

以上。裁判所は弁明せず、という諺(というか伝統文化)があるが、弁明しないのと、無視して口を噤んでしまうのとは、全く違うだろう。
訴訟当事者の納得を得つつ、適正な訴訟指揮で審理を運営することができなければ、判決結果がどうあれ、最低の評価を免れない。弁明せず、は、その上でのことではないか。痛いところを突かれて口を噤むとか、訴訟進行を強行することは、弁明せずに名を借りて臭いものに蓋をしただけだ。行政事件で勝訴してさえ、余り良い気分ではなく、益々、裁判所に対する評価は下がる。

(弁護士 金岡)