【1】
別の目的で手に取った季刊刑事弁護116号に、稲田知江子弁護士の呪詛のような論文が掲載されており、目を惹いた。「『合成写真的事実認定』を問う」という表題である。

表題だけで何が起きたかは大体、察しがつく。
大方、「検察官立証の大半を崩したのに、残りをかき集めて、検察官すら主張しない意味不明な事実認定が合成され、有罪判決がされ、最高裁でも維持された」のだろうと思ったら、余りにそのままの展開を辿ったようである。
同論文は、このような事態を踏まえ、合成写真的事実認定を編み出した判決と、それを3週間未満で追認した最高裁判決を批判し、「荒唐無稽な判決がなされている現状を知らせ、警鐘を鳴らしていくことには意味があるに違いない」という。

冷淡に見れば、所詮は最高裁で負けている弁護人の言いぐさである。
果たして狙い通りに「なるほどひどいなぁ」と受け止められるかは分からない。その逆に、悪い教育的効果を及ぼすおそれとてある。
とはいえ、やはり、どれだけ荒唐無稽な判決を書こうと、事後検証にも晒されず、国賠からも守られ、安穏としている裁判官らを、荒唐無稽なものは荒唐無稽だと、実際の記録に忠実に再現して実名入りで批判し、公に問うことには、意味があるだろうと思う。それもまた「自由市場」の一つの在り方であり、機能である。

【2】
荒唐無稽な裁判例を蔵出ししようと思えば、残念なことに幾つもある。特に今年の3月に三連敗を喫した判決群は、どれもこれもここに顕彰される資格がある。
が、その中でも抜きんでているものを掲載しておこう(奇しくも稲田論文と同じく性犯罪案件である)。

事案は、薄暗い部屋の中で性被害に遭ったというものである。弁護側は、「5年も前のことなので具体的な記憶はないが、医療上の必要から消灯するはずがない」と証言した看護師2名の証言に基づき、部屋は明るかったと主張し、検察側から出廷した医師は、明るい部屋を薄暗いと誤認しているなら被害者の主張に精神症状との結びつきを考えないわけにはいかない趣旨の証言をした。

一審判決は、弁護人の主張を容れて部屋は明るかったと認定した上で、「覆い被さられたときに、部屋の電気が被告人の頭部で覆われ、薄暗いと誤認した可能性がある」という荒唐無稽な判決をした。身贔屓なしにいうが、電気の場所も、覆い被さった体勢も、一切、証拠上に現れない中で、無理のある、荒唐無稽の最たる判決だと「思われた」。

しかし、その上を行ったのが控訴審判決(名古屋高裁刑事第1部、2023年3月29日判決、杉山慎治裁判長、田中聖浩裁判官、谷口吉伸裁判官)である。なんと、部屋は暗かったと認定替えした。その理由は、「(医療上の必要から消灯するはずが無いと証言した看護師は)両名とも、本件当日に一般的運用と異なる動作をしなかったとの具体的記憶があるとは供述していない」からだという。

「医療上において行わないだろうことを行わなかったという具体的な記憶がないから、医療上において行わないだろうことを行わなかったとは言えない」とは、一体どういう意味なのだろう。真顔でこのようなことを言う、正しく、「肩から上は帽子の台」というべき裁判官が高裁の法壇に座っている事態は、恐ろしい。
彼/彼女に、「あなたは30年前、殺人を犯さなかったという具体的記憶がありますか?」と聞いてみたい。具体的記憶を証明できないなら、彼/彼女らは殺人犯だということを否定できなくなるのだが・・それで良いのだろうか?
稲田論文と同じく、3週間程度で上告は棄却された。

【3】
こういう荒唐無稽な裁判官がいる、ということを、感情的にではなく、実際の記録に忠実に指摘することは、例え敗訴していて、なんとかの遠吠えだと言われようとも、意味があると思われる。結果が出ていればそれに越したことは無いが、それだけが全てでは無いのだから。

ついでに、同じく116号収録の趙誠峰弁護士の論文は、かの「大河原化工機事件」における人質司法の記録を丹念に紹介した労作である。
知られているとおり、身柄裁判は連戦連敗の事件である。
そして裁判所に言わせれば、「その時の証拠関係からは間違いでは無かった」と居直るだろう(結論として冤罪であっても、その時の身柄裁判は間違いでは無かったと居直るのが裁判所である)。
その意味で、これもまた稲田論文と同じく負けた側からの告発に属するが、その記録に価値があり、その警鐘に意味があることは当然である。
趙弁護士は「全責任は裁判官にある。本稿に実名をあげたそれぞれの裁判官の責任である。彼らの身体拘束の判断は全て誤りだった」「この事件を警察や検察の不祥事で終わらせるならば、人質司法は永久に解消されない」という。実名で批判された裁判官らを「その時の身柄裁判は間違いでは無かった」と居直らせてはならないのは勿論であろう。

(弁護士 金岡)