事案的に執行猶予の余地はない、という感じで一刀両断された事案について、勿論、類似事例の渉猟に努めた上で(名古屋地検で書き写した判決報告は全て却下された・・)、「そもそも原審の依拠した量刑傾向は具体的に証明されていない」という主張を提出してみた。
無論、「厳格な証明の対象ではない」と躱されることは百も承知である。
どのような理由で退けられるか、関心があった。

名古屋高判2023年10月16日は次のように判示した。
「しかしながら、量刑判断において使用される量刑傾向は、受訴裁判所ないしこれを構成する裁判官の、各々の経験に裏打ちされた、同程度の犯情評価がされる事案における科刑実態に関する認識及び判断というべきものであって、・・・証拠による証明を要しない」

これを読み、やはりダメだな、と感じる。
「裁判官の、各々の経験に裏打ちされた・・認識」が正しいと盲信している裁判官に何を説いても無駄では無いだろうか。それが正しいかどうかが問題であり、せめて外部検証に晒せといっているのに「経験を信じよ」とは質の悪い冗談以下だ。
原審裁判所の裁判官が、仮に裁判官人生の9割を民事畑で過ごした人だとすると、その人の「経験に裏打ちされた・・認識」は果たして正しいのか。そもそも事後審たる控訴審裁判所は、原審裁判官の「経験」が正しく機能したかをどうやって審理判断して、裁量の範囲と追認するのだろうか。

考えてみれば、理論的にどうあれ、純然たる情状要素を自由な証明で不同意にお構いなく法廷に取り込んでいくというような乱暴な裁判は殆ど目にしない(例外はある。例えば本欄2020年1月15日の記事参照。)。特に弁護人の不同意意見に対しては、手続保障に配慮した訴訟指揮がそれなりに定着していると言えよう。
しかし量刑傾向だけが、その軛から逃れているのは何故なのだろうか。おそらく、全件で正面から具体的明確にしようとすると、相当に困難だという政策的理由だろう。しかし、それにより人生を(実刑か否か等で)変えられていく被告人がいるとなれば、そのような政策的理由は抗弁になるまい。裁判員裁判で、量刑データベースに基づき社会的類型に基づく量刑論が闘わされているのだから、それを非対象事件に逆輸入しないことに合理的説明はつかないだろう。

・・そういえば、岡慎一弁護士から、「量刑判断における防御と当事者主義」の抜き刷り(大手ら古稀祝賀論文集所収)を頂いたなぁと思い出して、取り出してみた。
そこでは、「量刑についての当事者主義的運用」と、そのための「量刑判断についての争点整理が必要」と指摘されている。量刑傾向に基づく量刑の公平化には好意的な評価を加えた上で、「目安となるべき量刑傾向」はすべて防御対象となり得ること、憲法31条の要請する「適正手続の内容」の一つに量刑判断における実効的な防御が含まれることが指摘されている。
自由な証明かどうかという問題よりも、当事者主義の対象としようという文脈から語られているが、腑に落ちる内容であった。

(弁護士 金岡)