京都地裁で係属している某著名事件の報道記事を読んでの偽らざる感想である。

目にした報道記事は、被害者遺族の意見陳述を報じた次のようなものである。
「母親は事件後に遺体と対面した際、(被害者が)赤ちゃんの時に聞かせていたという子守歌を歌い、頰擦りして別れを惜しんだ・・子守歌はこの日の法廷でも披露し、裁判員の涙を誘った。」

法292条の2は、被害者等に、「被害に関する心情」や「事件に関する意見」の陳述を認め、これを量刑の一資料とする限度で斟酌することを予定しているが、陳述を超えた感情的情報を持ち込むことは許していない。
感情的情報が、有罪無罪の判断や、量刑判断を被告人に不利な方向に押しやる危険性は夙に指摘されて未だ研究途上であり、政策的な妥協点として法292条の2が制定された経過を考えると、その取り扱いは厳格でなければならず、その範囲を逸脱した意見陳述が行われた裁判は、許容されない情報が検証不可能な悪影響を及ぼしたものとして、証拠裁判主義の見地から違憲違法の疑いが推定されると考えるべきである。

上記報道において、遺族が遺体と対面して子守歌を歌う心情に至ったことを陳述する限度では、法292条の2の範囲内と言えるだろうが、その場面を再現する趣旨かどうかはともかく、現に子守歌を披露するとなれば、それは最早、心情や意見の陳述ではない。誤解を恐れずいえば、過剰なperformanceである。
被害者遺族であることは錦の御旗ではなく、あくまで法の枠内で~憲法31条の保障する手続保障を害しない限度に於いて~法292条の2の心情意見の陳述が許容されるのだから、過剰なperformanceが違憲違法であることは当然である。

報道から詳細は不明であるが、「裁判員の涙を誘った」というのだから、裁判所はこれを阻止しなかったのだろう。このような裁判所の訴訟指揮は、強く批判されるべきである。
第一は、適正手続保障を行わなかったことに対して。
第二は、被害者に阿ったことに対して。思えば裁判所は、ゼッケンその他の着用を禁じる等して、法廷に理性と証拠以外のものが持ち込まれることを嫌う建前である。近時の報道では「ブルーリボン」に関する大阪の事件が記憶に新しいが、そのようなperformanceというべき意見表明を押さえつけること屡々である。にも関わらず、何故、被害者側がperformanceを行うことは止めないのか。もし冤罪を訴える被告人が、被告人質問に於いて、裁判所批判の寸劇を「私の心情です」といって遣り始めたら容認するのだろうか?毅然とした訴訟指揮をせず、被害者側に阿り、理性と証拠から離れたならば、それは最早、裁判ではないし、そのような裁判体は忌避されて然るべきである。

この顛末は、手続記録においてどのように残されるのだろうか。
弁護人は、「子守歌を披露」に対し異議を申し立てただろうか。公判調書に、子守歌を披露したことがきちんと記録され、違法な感情的情報が持ち込まれたことが上訴審の検証に晒されるだろうか。
歴戦の弁護人でも立ち上がるのが躊躇われる雰囲気であっただろうことは想像に難くないが、それで怯んでいては、手続の監視者の役割を果たせない(と、第三者的には思う)。日頃から、一朝ことあるを想定して、頭と体が動くようにしておく必要がある。

(弁護士 金岡)