第1審で開示されていた目撃者の調書が、控訴審弁護人である私の分析においては非常に大きな意味を持つと思われたことから、これを証拠請求したところ、検察官は当然のごとく「やむを得ない事由」を争ってくる。
その理由は大きく2つであり、うち一方は「目撃供述の信用性判断において、補助事実としていかなる事実を主張・立証するかは、訴訟当事者の合理的・専門的判断に基づく取捨選択に委ねられており、特段の事情もないのにその判断をないがしろにすることは、事後審である控訴審の性質にそぐわない」というものである。
もちろん、これ自体が理解に苦しむ主張である。
原審弁護人が正しいという保証はないのだから、それと異なるケースセオリーこそ正しいということはままある。原審弁護人の主張と異なるケースセオリーを提示することと原審弁護人の判断を「ないがしろ」にすることとは全く別問題である。
事後審事後審と、高裁が手を抜くようになって久しいが、恰も「誤判でも尊重すべき」という論調を見るにつけ、実に不愉快であり、裁判が当事者の人生を大きく左右することへの思慮が一欠片もない法曹が大量にいることに暗澹とする。
さて本題はこちらではなく、もう一方の理由である。
正しくは上記理由を補強する位置付けなのかもしれないが、曰く、「原審弁護人はいずれも私選弁護人であり、その弁護活動に特に問題は見受けられない」という。
わざわざ「私選弁護人」と強調しているところが目を引く。
国選弁護人であれば、選択権のない押し付けであるから、もうちょっとこう、救済してやってもいいかもしれないが、私選弁護人は自ら好んで選んでいるのだから、その選択の結果は引き受けろと、こう言いたげである。
しかし、私選だろうと国選だろうと、有能な人は有能だし、無能な人は無能だ、というだけのことで、私選か国選で「やむを得ない事由」の広狭が変わるとは思われない。
こう例えれば適切だろうか。
自ら選んだ医者が手術に失敗したら、それは自由な選択の結果なのだから受け入れろ、などという馬鹿げた理屈はない。それと同じことで、弁護士の良しあしなどそう簡単に見分けはつかないのだから(弁護士が専門分野を同じくする同業者弁護士の良しあしを見極めることとて、そう簡単ではない)、私選だろうと相違は生じまい。
言うことに事欠いて、品のない、当てこすりだなぁと思った次第である。
(弁護士 金岡)