「ジハーディ・ジョン」が殺害されたという報道、ついでパリにおける同時多発テロの報道など、国際平和秩序への脅威とか第三次大戦といった言われ方をする現象の話題が相変わらず喧しい。

同時多発テロを受けては、何をきれいごとを、と言われるのは百も承知だが、かねてから思っていることを書いておきたい。

もともと、ビン・ラディン氏が米軍に殺害されたあたりでも言いたかったのだが(そのころ本欄はなかった)、ビン・ラディン氏にせよ、 「ジハーディ・ジョン」氏にせよ、米軍が言い分を確認することもなく一方的に殺害した、という言い方自体は許されるだろう。国内で人ひとり死刑にするには、相応に重厚な手続を行わなければならず、告知・聴聞はもちろん、裁判手続も必要なわけだが、テロリストに関しては一方的な殺害が許されるのだろうか。許される根拠は何か。許されるとして、テロリストと、そうでない人(裁判を要する犯罪者)との間には、どのように線引きするのか。そして、その線引きが正しいことはどうやって確認するのか。ジハーディ・ジョンの件では、報道によれば、「世界が少し平和になった」との談話が当局から出されているようだが、人違いでないことの保障、人違いでないとして線引きが適切であることの保障は、誰がどう、行うというのだろうか。

ここで想起されるのは、近時のイラク侵攻である。大量破壊兵器を根拠に攻め込み、政権を崩壊させ、しかし大量破壊兵器が見つからなかったことは確認されている。もし大量破壊兵器の有無が侵攻の線引き基準であったとするなら、手続保障があれば侵攻されなかった筈である(その結果、フセイン体制は続いたかもしれない。それが良いことなのか私にはわかろうはずもないが、欧米的価値観から気に食わない政権は軍事力で打倒できるという世界には、危うさしか感じない。極端な話、共産党が日本で政権を取った途端、米国に侵攻されるという理屈になりえる。)。

一事が万事というように、手続保障より重要なものがあるとか、間違うはずがないといった勇ましい掛け声は危険極まりないということである(特に、大量破壊兵器がなかったという厳然たる事実について、いまだ黙して語らない政府を冠する場合、それを肝に銘じたい)。この一点において、テロリストを殺害した、万歳、という声には同調できない。自国民が被害者の軍事力により拘束し、裁判にかける(それも特殊な軍事法廷ではなく、通常裁判)、というのでなければならない。

(弁護士 金岡)