【5】 検察官の主張
さて、前回述べたように、過失構成について求釈明するや、いきなり訴因変更された結果、残された過失は❷「前方左右を注視せず、進路の安全確認不十分」というものである。
こちらも、少なくとも、注視していた場合に(そのような注視義務があるのかは別論である)、いつ歩行者を発見でき、どうやったら結果回避できるのか、という問題になる。
鵜飼裁判官の妨害に遭いながらも(途中で異動していったことは幸いであった)判明したところでは、検察官は、注視していれば歩行者の背後6メートル手前で歩行者の人影を認識でき、そこから反応時間1.07秒で急制動なり左右にハンドル操作すれば、依頼者の車速を最も有利(高速)に時速12.78キロメートルと設定しても、優に結果回避できた、と主張したいことが判明した。
【6】 致命的見落とし~僅か36センチ~
仮に依頼者の立場で歩行者に接近して、背後6メートル手前で歩行者の人影を発見したとき、衝突まで、あと何メートルだろうか。
検察官は、その答えを「6メートル」としていたが、これが一つの致命傷になった。
自転車の運転手が、6メートル手前で歩行者の人影を発見したとき、歩行者の背中と、運転手の目とは、6メートル、離れているが、自転車の前輪は、もっと先にあるので、そうはいかない。歩行者の背中と自転車の前輪の距離は、この場合、4.86メートルしか残されておらず、検察官の計算式からは、「急ブレーキで、36センチ手前で止まれる」という立論になってしまった。
自動車の交通事故案件で、運転手の目とフロントバンパーの距離を加味することは、余りないかも知れない。
しかし数字の小さな自転車事故では、目と前輪の距離は、結構な影響を与える。
このことは、公判準備段階の終盤近くに、弁護人から指摘し、それにより検察官は相当に苦しい立論に陥った。
判決も、「その差はわずか0.36メートルであり、これは本件自転車の・・約0.1秒で進行することのできる距離である。・・検察官の主張する前提条件が少しでも異なれば、急制動措置による結果回避可能性に大きな疑いが生じ得る構造となっている・・慎重に検討する必要がある」として、上記見落としの重大性を評価した。
【7】 視認可能距離を巡る研究
では、70歳の依頼者は、暗い歩道上で、先を行く歩行者を6メートル手前で発見できたと言えるだろうか。それをどうやって証明するのか、という話である。
検察官は、依頼者と「良好な視認条件下での静止視力が等しい」50代半ばの男性を被験者として、実証実験を行い、上記6メートルを導出した。
しかしである。交通工学の先行研究においては、視力の衰えが60歳以降で急激になることを踏まえて70歳以上を高齢者と分類し、高齢者の視力研究を進めている。
いずれもウェブ上で公開されているが、検察側の用いた平成23年度警察庁委託調査研究報告書「講習予備検査等の検証改善と高齢運転者の安全運転継続のための実験の実施に関する調査研究Ⅱ」や、弁護側で用いた自動車安全センター平成11年度調査研究報告書「運転者の身体能力の変化と事故、違反の関連、及び運転者教育の効果の持続性に関する調査研究報告書」は、高齢者の視力が、コントラスト識別能力、暗順応、動体視力等の領域において、格段に衰えることを指摘しており、幾ら、「良好な視認条件下での静止視力が等しい」人物であっても、50代半ばの男性を被験者とすることは、高齢者特有の視力の衰えという現象を無視した非科学的な実証実験に過ぎないということになる。
悪いことに、上記実証実験は、被験者に、「行く手に人が居る」ということを教えて注意喚起した上に、更に、時速12.38キロで走行させるのではなく(動体視力ではなく)、静止視力で、行われていた。
判決も、「静止視力が概ね同じであったとしても」、動体視力の相違や、コントラスト識別能力の相違の可能性を考慮に入れると、「本件視認実験が、本件事故当時の被告人の具体的な視認能力を十分に踏まえたものとは必ずしもいえない」として、上記6メートルの立証の失敗を認めた。
思えば、交通事故案件の実況見分調書では、しばしば、視認可能であることを強調する結果が記載されるが、動いている自動車の、つまり動体視力で論じられるべき視認可能性を、静止させた状態で「良く見えます」と言わせているものばかりではないか、と思うと、認識の甘さを感じるところである。
【8】 反応時間を巡る研究
更に、発見できたとして、1.07秒の反応時間で回避行動が開始されなければならないという前提も、どうだろうか。
検察官の論拠は、前掲平成23年研究において、高齢者の反応時間の平均値が1.07秒となっている、ということにある。
しかし、この報告書をしっかり確認すると、平均値は1.07秒だが、被験者47人のうち、0.9秒~1.1秒で反応できた割合が23.5%(おそらく11人)に対し、1.1秒~1.3秒で反応できた割合が29.5%(おそらく14人)と、相対的多数は、1.07秒では反応できていなかったことが分かる。
平均と分散の違いは、おそらく統計学の基本の話だろうが、安易に平均を取ると、相対的多数に不可能な注意義務が設定されてしまうと言うことになる。
判決も、上記の事情を踏まえて、「高齢者の平均反応時間が1.07秒とされていることをもって、直ちに被告人の反応時間も確実に1.07秒以下であると認定・・することには躊躇を覚えざるを得ない」と判断した。
なお、一般民事では、反応時間0.75秒で停止距離を計算することが多いのではないかと思われるが(ウェブ上の計算機も大体そうである)、立花書房「業務上過失事件捜査実務必携」では「近年では1秒とするものが目立ちつつある」(126頁)とされている。
勿論これは、全年齢で、ということで、高齢者に直ちに使える数字ではないが、全年齢でも、従前言われてきた0.75秒が、いかがわしいと扱われ出していることは、知っておいて良いだろう。

















