現役裁判官が「裁判官は弁明せず」の伝統を破って個別の担当事件について語った書籍がある、と聞いて、読むのを(かなり)楽しみにしていたのだが、実際に読んでみると、なんだこれはと唖然とする本であった。
が、今でもそう言う本音を抱えている法曹が一定数、いるのかもしれない、と思うところもあり、前向きに参考になる書籍ではないが、紹介することにした。
八海事件は、言わずと知れた歴史的な冤罪事件である。
本書は、有罪判決を書いた地裁判決の藤崎裁判長が執筆したものであり、例えば正木弁護士がその著書で八海事件の誤判を攻撃したことを受けて「係属中の事件が国民裁判にかけられているような感じがし」、また、「(正木弁護士らの批判は)かほどまでに、事件の真相に触れていないことを」知らしめるために、執筆したという。
藤崎裁判長の考えでは、幾ら世論に訴えたところで、それは裁判資料とはならないのだから、無意味であり、世論に訴える行為は、「与論をあふり」社会的勢力によって裁判官の自由な判断を左右しようとするものに過ぎない、裁判官の独立や、裁判所による裁判を受ける権利保障に悖るものであるという。
世論を喚起し社会的勢力で以て裁判結果を左右しようとする営みは、私も反対であり、その点だけは共感するが(署名活動だとか新聞記事の束を持ち込もうとする検察官は、一昔前は割と見かけ記憶だが、軽蔑していた)、そのことが、個別の訴訟指揮や、適用された経験則の異常さを指弾し、果たしてそれが真っ当に批判に耐えうるのものかを世に問うことを禁じるべきとはならないのであり、上記論には飛躍がある。
例えば藤崎裁判長は、上記に続けて、「嘘の証言をしているかは、事実証人を調べた裁判官でないと判断はつきがたい」、「(被告人のためのアリバイ証人について)よほど注意しないとだまされやすい」として虎視眈々とあら探しをした結果、見事に証拠の捏造を看破した裁判所の仕事を誇らしげに語り、挙げ句、敗戦国として英米系の当事者主義を受け入れざるを得なかったことはやむを得ないとしても適当ではない疑義があると主張し、反対尋問権保障を論難して曰く、「むしろ被告人のいないところで、司法警察員や検察官に述べた事実の方が、真実に近い場合が多い」等と恥ずかしげもなく公言しているのだが、このような歪な裁判官籤を引き当ててしまえば、殆ど絶望的な事態に陥る。
・・とまあ、上記藤崎裁判長の主張が異常であることは明らかなのだが、考えてみれば、最後の「むしろ被告人のいないところで、司法警察員や検察官に述べた事実の方が、真実に近い場合が多い」というのは、検察官の中では未だに多数意見だろうし、なんなら内心では同調する裁判官もそれなりにいるのではないか、と疑われるところであり、このような藤崎裁判長的な手合いが未だに相当勢力を占めているから、昨今の再審手続法整備において目的外使用規制による締め付けを図ろうとする、と見ることも強ち間違いではないだろう。
糾問的に、経験を積んだ裁判所(や検察庁)の仕事に間違いがあるはずはなく、社会通念に照らした批判や弁護人の弾劾活動など、寧ろ真実を曲げる雑音程度にしか感じられない裁判官(や検察官)が未だにいることを踏まえて(くだんの藤崎裁判長は、素人ではあるまいし、証拠法則など不要だと本書中で放言している)、しっかりとした弁護活動が求められていると、改めて思うところはあった。
よほど時間を持て余しているか、裁判に対し哲学的な考察をしたい場合に最後に読む本としては、こういうのを手に取るのも一興だとは思うが、決して、わざわざお買い求めになるような本ではない。
(弁護士 金岡)

















