これまで本欄では、「(在宅)被疑者が取り調べに弁護人を同席させる権利」を実効あらしめるための理論及び実践を説明し、あわせて「特別編」として、勾留却下後に弁護人同席で対立した挙げ句に同一被疑事実で逮捕→即日勾留請求という経過をたどった案件を紹介し、勾留状発付をなんとか準抗告で逆転したことを報告した。

さて、それから4ヶ月、またしても同じ攻防が繰り返された(担当・情報提供は何れも古田宜行弁護士)。
少々長くなるが、事案等を紹介の上、寸評を付した。

(事案の紹介)
事案は痴漢(迷惑防止条例違反)の否認事件であり、当初逮捕後に勾留却下となり、それ以降、3ヶ月半の間に7回(警察5回、検察2回)も現実に出頭し、弁護人同席でなければ取り調べには応じられないと繰り返した(弁護人によれば一度は「お帰り下さい」と言われたとのこと)。最後の出頭が7月5日であり、(記録によれば7月26日に一度、逮捕状請求が却下されるも)8月8日、再度の逮捕に漕ぎ着け、同日、正式に起訴すると共に職権勾留の申立に及んだというものである。
裁判所は、勾留を却下した(黒木裕貴裁判官)。

これに対し検察官は準抗告に及んだ。その理由は、要約すると、
1.法律上の定めもないのに弁護人の立会を要求し、つまり不当に取り調べに応じない。
2.依然として詳細を明らかにせず否認し、罪証隠滅のおそれは特に高まっている。
3.公判出頭を約束しているとしても覆す可能性が高い。逃亡の虞れは飛躍的に高まった。
というものであり、2と3は意味不明である。
さて1は・・随分と牙を剥き出しにしているなぁと言うところである。弁護人選任権を実効あらしめる上で、横から助言を得るということに勝るものはあるまい。弁護人から切り離さなければ取調べにならないとするというなら、村木氏の例えで言うところのプロボクサーとアマチュアボクサーの対決の構図で一方的に弱いもの虐めの体制を作らなければ取調べにならないと言うことだから、随分と情けない話である。取調べを、事情を尋ねるものではなく、言い負かし、押さえ込み、言い訳をさせず、検察官の描く構図の通りに従わせようという、さもしさも透けて見える。対等の立場で公明正大に事情を聞きたいのであれば、弁護人がいようといまいと変わりは無いのであり、このような糾問的な取調べ観に染まった検察官(因みに今回の準抗告担当は、~決裁を受けた上での全庁的な判断ではあろうが~榎本淳検察官である)が仕事をするうちは、供述が歪められたことに起因する冤罪事件は全くなくならないだろう。

裁判所(刑事第5部、奥山豪裁判長)は、準抗告を棄却した(名古屋地裁平成28年8月8日付け決定)。準抗告から1時間30分も経過していないと思われる、迅速な判断であった。
その要旨は、「検察官は取り調べ対応を踏まえて罪証隠滅及び逃亡の虞れが高まったと言うが、勾留却下後にそのような企てをした形跡はなく、かえって現実に何度も出頭しており、公判期日出頭意思も明確である」として、前回却下後の事情変更をばっさりと否定したものである。

(追記)

担当裁判官は、検察官の準抗告に併せた執行停止申立を認めなかったとのことである。2年半前、勾留却下を準抗告で覆されたときは執行停止申立は認められた上のことであったが(そもそも勾留却下の執行停止という意味が分からないという議論もある)、それに比べても、担当裁判官が果断な判断を行ったことが分かる。よほど、検察庁の遣り方を腹に据えかねたのであろうか。

(評)
私は平成20年ころであるが、勾留却下後、やはり取り調べ同席で揉め、在宅のまま起訴されると同時に勾留の申立がされた案件を経験している。その時は、裁判所からお呼びが係ったので依頼者と一緒に出頭し、打合せ室のような所に通され、依頼者と一緒に裁判官と話をし、そのまま一緒に退出した。この時の新鮮な感想は今でも色あせない。なによりも、判断権者と対等の立場で、依頼者と一緒に話ができた、ということは、少々、驚きでもあったのである。
それから8年が経過して、未だに、今回の特別編、特別編第2弾のような出来事が繰り返され、ついには「同席の法的根拠はない」等という珍妙な主張が繰り出されることには、呆れると言うより落胆の域である。

少々想像を逞しくすると、近時の事例が、何れも、勾留却下→再逮捕→即日起訴・勾留の申立という展開をたどっていることには、いかがわしい作為を感じる。前掲平成20年の事例のように、在宅起訴して勾留の申立をすると、審査の必要上、裁判所は被告人を呼び出し、被告人は弁護人と出頭し、結果、裁判所にも「呼んだら来るじゃないか」という印象を与えるだろうから、検察庁としては狙いを達成しづらい。
これに対し、逮捕状請求は、なにより秘密裏に行うことが出来、弁護人の反論機会もないことから、逮捕状請求に添付する疎明資料を操作することで、最大限、事実関係を検察有利に歪め、それにより逮捕をせしめることが出来る(事実、今回の2事例とも、後に事情変更はないと指弾されるものであるが現に再度の逮捕状が発付されていることに注目である)。もとより、これに続く勾留審査では弁護人にも反論機会が生じるが、「呼んだら来たじゃないか」の場合とは大きく異なり、逮捕中ですよと言うことで裁判所の判断を誤らせやすいし、被告人側も「現に出頭したでしょ」という身の証が立てづらいという顕著な差がある。

以上の想像が当たっているかどうかは分からないが、一つ言えることは、何の事情変更もなく、それどころか呼べば出頭してくる人に対し、随分とまぁ軽々しく逮捕状を請求するものだということである。
検察官は、自身が一日でも逮捕されれば、家族は大変心配するだろうし、子どもにどう説明したものか思い悩むだろうし、周囲に対し恥ずかしいだろうし、仕事にも穴が空くし、あちこちに迷惑や負荷をかける、ということに想像を及ぼしてほしいものだ。強制処分は、その強度の負担に見合った必要性がある場合に初めて許される(比例原則)。私の事例や古田弁護士の事例が、比例原則に照らし恥じない逮捕状請求だったのかは、今後、然るべきところで問われなければならないだろう。

(弁護士 金岡)