【反対尋問の性質】

連載(1)で述べたとおり、本件では、(整理手続を終結させ、引き続き審理入りする予定で、)同日に尋問予定であった証人Aについて、その数日前にAの供述録取書等が新たに開示・請求され、更に前日、専門家証人Bについて、その証言の信用性を補強する事情が付加して主張されたという経過があり、反対尋問に入るべきではなかったことが前提である。
それにもかかわらず、盛岡地裁は、上記を理由とする期日変更請求を却下し、「反対尋問まで進むのか」と問うたのに対しても、これを肯定した。だから辞任した。

ここでの分かれ道は、反対尋問に入るべきかどうかである。私のように一切、反対尋問に入るべきでないとの考え方と、やれるところまでやってみるのはどうかという考え方と、が、一応考えられるだろう(新証拠や新主張を検討する余裕もなく、反対尋問を最後までやりきれると考える御仁は流石におられないはずだ)。
後者の考え方が妥当かどうか、検討する必要がある。

【反対尋問は小出しに出来ない】

整理手続を経て、証人の証言内容が概ね予測でき、どこをどのように活かし、どこをどのように弾劾するか、自身の弁論の構想に向けて準備を遂げる。これが現代的な反対尋問の水準である。つまり、反対尋問は、既に構想された弁論に向け、それを支える諸事実を確実に立証できるよう、具体的な獲得目標の下に行われなければならない。整理手続以前の時代は、証言内容を概ね予測すること自体に難があり、それ故、探索的尋問という事態にも無理からぬものであったが、今時では、証言内容を概ね予測するだけの制度設計がされているから、証言内容を概ね予測できないとすれば、それは準備状況にこそ問題があると言うことに他ならない(探索的尋問を正当化しない)。
私は、反対尋問研修を引き受ける中で、このように教えているし、自身の実践の中でも、具体的な獲得目標を逸脱する質問は絶対にしない。目標を逸脱する質問は、良くても何の役にも立たず、悪くすれば弁論の構想をぶちこわしにするだけである。構想さえ出来ていれば弱気な方が寧ろ良い、とは言い過ぎかもしれないが、そんなところである。

以上のことは、日弁連が近年、体系化して提供しているNITA型研修でも言われているはずであり、その講師陣の一角には舟橋直昭委員長も加わっておられる(はずだ)。

新たに供述調書が開示されると(ちなみに本件の証人Aについて新たに請求された供述調書は、その3月に入り新たに作成されたものであった)、新たに変遷が見つかったり、逆にこれまでは唐突な供述に見えたものが従前供述に支えられていると判明したり、する。新しい事実関係に言及するものがあれば、依頼者への事実確認や他の証拠との整合性との検討(つまり事実として認める方向かどうか)、有利不利の検討(積極的に引き出すか、逆に顕出を阻止するか)、更に証拠開示請求をすべきか(その証拠が弁論の構想に影響を与えないとも限らない)等々、やることは一挙に増大する。本件は、たかだか1年半程度の整理手続の事案であったが、その最終局面でいきなり証人の新たな供述調書が作成され、請求されるという事態は、異常といわなければならず、それまでに確立した方向性に修正を要するか、一歩踏みとどまって考える必要があることは、経験を積み、周到な刑事弁護を展開できる弁護人であれば、誰しも理解できよう。

今回、刑事弁護委員会への防御活動に際し、意見書を作成頂いた、大阪弁護士会の後藤貞人弁護士(知らぬものとてない、といって良かろう刑事弁護士である)は、この点について、意見書に次のように書かれている。
「問題の本質は反対尋問権にあり、それ以外にはないのです。弁護人が依頼人の利益を守るためにしなければならないのは、検察官の追加立証、新たな説明等を検討して、反対尋問の準備をすることです」「依頼人の利益を守るために弁護人に残された手立ては、弁護人を辞任することしかありません。」「そのまま反対尋問までしてしまうほうが却って問題であると言えます。」

【従って反対尋問に入ること自体の阻止が命題となる】

以上の検討から、反対尋問に入ること自体が禁忌だということが確認できる。できるところまでやってもよいのではと考えられた向きは要反省である。なによりも、よかれと思って行った質問が、その後、新証拠・新主張を踏まえて検討すると、実は防御上不利益に作用してしまう場合、弁護過誤と言われても仕方がないし、「その時々で最善を尽くしたのだ」と言い張ってみたところで、最も救われないのは依頼者だからである。「どうして新証拠・新主張を十分に検討せず中途半端に反対尋問に入ったのですか?」と言われ、返す言葉があるだろうか?

(弁護士 金岡)