前回は、理論的に見出される原則的に依頼者の意向に逆らえない原則と、現実には模索せざるを得ない、弁護人の考える最善の弁護活動を実行することとの相克について検討を要するだろうところまで指摘した。

現実の法廷に於いて、初手は解任の申立であろう。理屈がどうあれ、弁護人の考える最善の弁護活動を拒否された場合、そのような弁護活動を押しつけないで済むようにしなければならないが、不本意な弁護活動を強いられるのも望ましいものではない。
相性の問題もあるので、A弁護人が解任されてもB弁護人が同じ目に遭うのか、案外B弁護人とは上手くいくのかは、やってみなければ分からないところもある。なので、先ずは交代を模索する一手になる。

とはいえ、B弁護人も同じ目に遭うかも知れず、一人目かゆくゆくのことかは別にして裁判所が容易に解任しようとしない場合もあるだろう。
その場合は、依頼者に、基本的に依頼者において取り消せる(あるいは阻止できる)ことを説明し、その方法も説明した上で、「過失を争い無罪を主張する」「証拠を不同意とする」「無罪の弁論をする」等、局面局面で依頼者に逆らう弁護活動をやろうとする、だろう。
このような国選弁護人の活動は、法廷に相当の混乱をもたらす上、依頼者の期待する弁護では全くないことから、裁判所において依頼者の国選弁護権が全うされていないと判断して同弁護人を解任する。そうせざるを得ないように仕向けることが、法廷の現場では正解であろう(依頼者の主観的な利益と、弁護人の尊厳、双方に合致する)。
その結果、国選弁護人の解任が繰り返されて刑事裁判が成り立たなくなる究極の場面では、依頼者が国選弁護人の弁護を受ける権利を放棄したと評価される余地も生じるだろうが、前回問題とした「あり得る無罪主張を拒否する被告人」のように、濫用的ではなく単に折り合いを欠く程度のことであれば、そこまでの事態に発展することなく折り合える弁護人が登場するように思う。

ともかく、現実のところで考えると、ぎりぎりのところまで、依頼者の主観的な利益と、弁護人の尊厳の双方が調和するよう、調整の努力を尽くすしかなく、どちらかを極端に優越させることは望ましくない。
何といっても結果を引き受けるのは依頼者であり、弁護を受けることは義務ではなく権利である。依頼者が望まぬ弁護活動を強要することは筋が違う。国選事件に於いても、可能な限り、望む弁護活動を受けられるよう保障することが大原則であることは動かない。
他方で弁護人が犠牲になるのも筋が違う。不本意な弁護活動を強いられる謂われはない。

こうまとめてしまうと話は単純にも映るが、おそらくこの問題が容易に収束しない難解さを持つのは、
ア)依頼者の要求が濫用的で無茶苦茶なものである場合、
イ)依頼者の要求が通りづらく弁護人としては賛成しづらい場合、
ウ)逆に弁護人が争うことを勧めたいような場合、
エ)不適切な弁護人が依頼者の方針を頭から否定しているような場合、
と、多様な想定が可能なところにある。
本稿ではウの場合を念頭に置いたが、世上まま聞くのはアのような場合であり、他方、著名な判例である最三小2005年11月29日決定(否認事件なのに有罪前提の弁論を行った事例)は(最高裁の結論はともかく分類上は)エの場合(百歩譲ればイの場合)に相当しよう。アの場合に結果的に弁護の押しつけになることと、エの場合に弁護を押しつけることとで、受け止め方が異なることは言うまでもない。
本稿で問題とする、弁護人の方の尊厳も、言ってしまえば弁護人の我が儘に映る場合(「否認事件はやらない」「否認事件でも認める和解的刑事弁護を目指す」等と宣った国選弁護人を複数、知っている)から、至極もっともな場合まで、色々あるだろう。

前掲最三小2005年11月29日決定の上田補足意見は、「何をもって被告人の利益とみなすかについては微妙な点もあり、この点についての判断は、第一次的に弁護人にゆだねられると解するのが相当」とする。通らない依頼者の主張に徹するよりも、それを否定する前提でも最大限有利になるよう弁護活動を行うことが弁護人の裁量判断として許される、ということであろう。
これとて、専門家の矜持からすれば頷ける考え方ではある(だからといって直ちに弁護の押しつけが正当化されるかは別論であり飛躍がある)が、「不適切弁護」の事例においてまで「第一次的に弁護人にゆだね」て良いかというと途端に話は見えづらくなり、そこまで上田意見のように運用しては、依頼者に、憲法上の権利保障を剥奪する不幸な籤引き結果を押しつける憲法違反をもたらす。

それでもアの場合からエの場合までを統一的に扱うなら、依頼者の主観的利益及び弁護を受ける権利と、弁護人の尊厳とを両軸として、できる限りの所まで方針が一致する人選を繰り返し(繰り返させ)、その繰り返しが目に余る回数に及んだり、或いは無駄な場合に限って、意に沿わぬ弁護人による弁護活動を受け入れさせる、というのを結論としたい。
即ち、イウエの場合は、人選を繰り返すことで、依頼者の主観的な利益に反しない弁護人が得られるだろう(客観的な利益にも反しない弁護人かは分からないが、それは慮外のことである)見込みがある。アの場合は、濫用的なので最終的には憲法的保護に値しないと整理する。
故に、前回提示した理論的な落ち着きどころと思われる結論(や前掲上田意見、前掲最決の結論)は、私の採用するところではなく、例えばウの場合、依頼者に逆らえないのではなく、逆らった上で、第一次的には解任を、次善の策としては依頼者に悉く取り消されることを弁護人側で甘受する方針である。悉く取り消された結果、依頼者には、その主観的な利益に合致する弁護を提供する弁護人が不在になるが、それが「不本意ではあってもやろうと思えばやれる」弁護人の責任であるか、人選を繰り返すことで妥当な弁護を受けられるようにすべき裁判所の責任かといえば、後者であろう。

(弁護士 金岡)