確か数年くらい前に、多忙な医師の供述録取書に「なお、この調書は私が不在の場で検察官が作成したものですが、内容をきちんと確認し、間違いないので署名しました」趣旨が記載されていて、驚いたことを覚えている。
供述録取書等が捜査官の作文に過ぎないことは夙に知られているし、被疑者/被告人から「取り調べに行くと、もう調書が用意してあるんですよね」と聞かされること、一再ならずであるから、今更に驚くことではないのかも知れないが、遂にそこまで作文化が進んだのか、と驚いたのである。
例えば電話なりで打ち合わせを行い、検察官がその内容を検察官に都合良く作文する。それは事後的な編集作業に過ぎず、検察官のまとめたい内容に過ぎない。かたや供述人は、既に供述から日が経ち、生の記憶はもとより、どう供述したかも曖昧化していくから、後日確認を求められても「大体それでいい」「積極的な大きな誤りはなさそう」の限度でしか、検討し得ないだろう。そして、捜査に協力的であればあるほど、その限度でも署名押印してしまう傾向は強かろう。
このような調書作成手法は、益々、(記憶に依拠するのではなく)調書依存の立証に拍車をかけ、時代に逆行するものであり、事実誤認の温床となること請け合いである。

今回、このことを取り上げたのは、(前述の医師の場合は「希にはそういうこともあるのか」程度で看過していたが、)現在進行中の特捜案件で、出てくる供述録取書に軒並み、「この供述調書は、私が以前に検察官にお話しした内容を事前に文章にまとめておいてもらい、その内容を私が確認するという方法で作成してもらいました」と書かれていたからである。
とりあえず目を通し初めて、最初の10通の供述録取書等までで、このような作文手法が用いられている調書が実に7通である。得てして、そういう調書ほど、無駄に長い。同じ論点を扱う調書は、露骨なまでの「コピペ」が多用され、申し訳程度に変化がつけられている。つまり検察官が庁舎にこもってせっせと都合良く作文したものを、従順な供述人が、(何日後かも記録からは分からないが)その曖昧化した記憶に基づき、はいはいと追認しているだけの代物、愚物である。

都度、目の前の供述人に確認を取りつつ文章化していただろう、昭和の方がまだましではないか、と思わされる時代錯誤ぶりである。
これが現代の刑事裁判に提出されようという事態に慄然とする。惰性で同意され、抵抗感なく証拠採用して読む裁判官の感性も、ますます鈍ることだろう。

(弁護士 金岡)