「令和」の馬鹿騒ぎ(直截的に嫌悪感を示す声も若干は報道されていることに安堵する)の良かった点は、改めて冷静に天皇制の問題を考える契機となったことだ。
天皇制が憲法の諸原則と明確に矛盾し、「皇族」に生まれながらの人権侵害を強いていること(そしておそらく、当の本人は極力それに違和感を感じる能力を摘み取るように育てられるだろうし、特に男系皇族は違和感を感じたとしてもそこから離脱する術すら与えられない非人道さがある)、また、報道等によれば基本的に好意的に受け止められているという前天皇の「慰霊の旅」は、客観的に見れば一定の政治性を伴う思想の表明であり、憲法違反と言わざるを得ないこと(その「慰霊の旅」が靖国神社に向けられたら大問題になるだろうに、正面から批判する声が少数なのはどうしてなのだろうか)等、考えることは大事だろう。

考えを深めるために天皇関連の出版物を幾つか読んでみた範囲では、岩波書店の「平成の天皇制とは何か」が割と硬派に感じられた。
渡辺治論文では、「公的行為」の肥大化を批判し「慰霊の旅」も公的行為としては金輪際やめるべきだと指摘して「天皇は侵略による加害を謝罪したり被害者を訪問したりする国民の責務を代行できる資格もない」と説き、また、退位の自由・不就任の自由に加え皇族離脱の自由も保障すべきだと説き(個人的には幼少期から人権を与えられないことを当然に受け止めるよう「洗脳」されるだろう皇族に対する教育の在り方の情報公開も必要だと感じる)、「国民が自らの上に立つ権威への依存を否定し、民主主義と人権の貫徹する社会へ向けて前進する」べきだと説く。
西村裕一論文では、「天皇の行為が内閣の統制から逃れるためには、それが『国民の耳目に触れず、公の意味を持たない場合に限られる』と解するべき」、とした上、同氏の見解を離れた議論としてではあるかもしれないが、「『個人の尊厳を有する理性的人間存在』として天皇を遇するためには、象徴天皇制を終焉させるほかないと説く論者もいる」「民主主義の理念を日本がより原理主義的に徹底してゆくことがあるとすれば、先述のように天皇制が危うくなる可能性も否めないかもしれません(という見解がある)」ことを紹介する。

以上の議論は、いわゆる市民感覚とは乖離があるのかも知れないが、憲法論としては非常に得心のいく議論であり、とすれば憲法が未だ市井に浸透していないということなのだろうと、法律家としては考えなければならない。
「国防のための実力を保有することは合憲であり、その組織を自衛隊と名付ける」と憲法に書き込んだところで、現在の自衛隊が違憲であることは揺るがないだろうが、それと同様、象徴天皇制を憲法に書き込んだところで、その在り様が違憲であることは当然に有り得るのであり、考えるのをやめたらおしまいである(今回の元号制定が違憲だと考える立場からは、「令和」を用いることを拒否する、くらいの身近なところから初めても良い)。

(弁護士 金岡)