「あいちトリエンナーレ2019」の企画の一つに「表現の不自由展・その後」がある。
組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会の後を襲い、それらの「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する、というものである。

これに対し早速、行政が噛みつく動きを見せている。
報道によれば、同展示に「慰安婦」問題に関わる「平和の碑」(平和の少女像)が含まれることについて、慰安婦問題について否定的な認識を示す河村市長が、「行政がお金を出したイベントで展示することは、見解が別れる問題に対して市長が一方の立場を容認したと受け取られかねない」と指摘し、視察する予定だとか。

以上の事実関係を前提に指摘するなら、第一に言えることは、市長の表現の自由に対する理解が疑わしいと言うことである。表現の自由の基本すら理解していないのであれば、公権力を預かる資格は全くない。

特定の表現内容が行政の立場(市長個人の立場に過ぎないとは思うが、議論の都合上、一応、行政の立場としておこう)と相容れないことを理由に、補助金支出の場面から締め出すことは、表現内容規制そのものである。行政の立場に反しない表現内容の表現活動しか補助しないことは、少なくとも間接的に(控えめに言っても強度の間接性を以て)表現内容に干渉し、違憲である。どちら向きの表現内容であれ、憲法上の表現の自由の保障を受ける表現活動は等しく扱わなければならないのが、憲法尊重擁護義務を負う公権力の義務である。
補助金支出は、表現行為そのものに向けられるのであり、表現内容に向けられているのではない。憲法を正しく理解していれば、「行政の立場に沿わない表現行為に補助金を支出している」からといって「行政が当該表現内容を容認している」等とは受け取られないし、受け取ってはいけないことは、分かるはずである。

河村市長は、このような基本すら理解していないのだろうか。
それとも、確信犯だろうか。つまり、自身の政治的確信に基づき、performanceとして、自身の政治的確信に相容れない表現内容を攻撃しているのだろうか。だとすれば、余計にたちが悪い。公権力を預かる資格以前に、預かる資質に欠ける。そういう公権力の私物化は、どこか別の国でやって頂きたいものだ。

なお、この問題を見ていて、いわゆる「ブルックリン美術館事件」を思い出した。同事件も、ジュリアーニ市長がカトリック教徒の政治的支持を取り付けるために特定の表現内容を攻撃し、市に多大な損害を与えながら自らはうまうまと支持率を上げたと報告されているが・・同じ穴の狢なのだろう。このようなperformanceが時として支持を集めるところを見せつけられると、未だ憲法の思想が行き渡っていないことに虚しさを覚える。

【8月3日、追記】ガソリン携行缶を持ってお邪魔します等のテロ予告まがいを踏まえ、安全に配慮して、不自由展は全面中止に追い込まれたとのこと。運営者側としてはやむを得ないのだろうが、こうやって多様な意見が有無を言わさず封殺されていくのは残念だ(こういう手合いが味をしめれば、裁判所すらテロの対象とされかねないだろう)。

件の市長氏は「日本人の心を傷つけた、謝れ」と騒いでおられるが、その言動こそ、憲法を傷つけている(大村知事は「行政が展覧会の中身にコミットしてしまうのは、控えなければならない」と述べており、まともなことを仰る)。権力の座を降りてから御自由にどうぞ、である。

(弁護士 金岡)