国会答弁の原典に当たることが出来た。
既に指摘されているとおり、天皇の認証行為と同様で、裁量の許されないものであることは、当時の国会の議論から凡そ明らかであると確認した(当時の政府説明では「形式的な発令行為」)。
そのことを踏まえると、今回の問題は、
・ 学問の自由
・ 立法権侵害
の2つに集約されるだろう。
ウェブ上で交わされる意見には、多く、学術会議の善し悪しにこだわるものや、会員にならなくても学問は出来るから学問の自由は関係などという的外れなもの(苟も法律家を名乗る輩の中にも同旨を主張するものがあり驚かされる)がみられるので、本欄でも私見を述べておきたいと思う。
なお、該当国会答弁は末尾に貼り付けた。

【学問の自由】

学問の自由は「国家からの自由」であり、学問内容を国家に干渉されない自由である。積極的に禁じるのも事実上締め出すのも干渉は干渉である。
ここでもし、例えば共謀罪について賛成派の研究者と反対派の研究者がおり、等しく学術会議の推薦を受けながら、一方が会員に任命され、他方が会員に任命されないとすると、学問内容により、研究者の自己実現の一環として学術会議会員として研究成果を問うていく営為が左右されることになるから、これは明確に学問内容への干渉である。
会員でないところで学問することは自由じゃないかという指摘は、故に、全くの的外れであり、問題は、学術会議会員として研究成果を問うていく営為に対する干渉である。
学術会議の善し悪しの議論も行われているが、学術会議における会員の活動が学問とは無関係であるという極論に立たない限り、学問の自由侵害は動かない。
上記のような干渉が横行すれば、差別される研究を好んで行おうとするのは一部の物好きのみとなり、非主流に追いやられ、つまるところ学問の自由に萎縮効果が生じる。上記のような営為を志す限り、阿諛追従、曲学阿世の徒を産むことは畢竟であり、つまるところ学問の自由の侵害が加速する。

【行政による立法権侵害】

仮に、学術会議が偏向した思想団体であって無用の存在だとして(勿論、これはあくまで議論のための為にする仮定である)、しかし、立法過程に於いて、その独立性を保障する法解釈の下に立法が承認された以上、それは、独立性を保障する立法権が行使されたのであり、法の執行機関に過ぎない行政はこれに拘束される。
末尾に貼り付けた国会答弁(第98回国会 参議院 文教委員会 第8号 昭和58年5月12日)では、旧社会党議員から「絶対にそんな独立性を侵したり推薦をされた方を任命を拒否するなどというようなことはないのですか」と質疑され、政府答弁では「実質的なものだというふうには私ども理解しておりません」「内閣総理大臣が形式的な発令行為を行う・・内閣法制局におきます法律案の審査のときにおきまして十分その点は詰めた」と説明されている。
その前提での立法である。どうして法の執行機関が勝手に変えられると考えるのか。その方が驚きである。総理大臣は、一番偉いわけではない。立法権の下にある。このことが弁えられない総理大臣及び議員諸氏、ついでに法律家、その他の方々は、とりあえず小学校の教科書まで戻った方が良い。
贅言かもしれないが、主権者は、ここで怒らないでどうする、と付け加えておこう。これは学術会議の善し悪しの問題ではなく一般的な次元のことである。主権者が国会を通じて「Aという法律を立法した」にもかかわらず、間接的にしか民主的統制を受けない、たかだか総理大臣如きが、「Aという法律を否定し、独自のBという法律で行政を行っている」のである。これほどの背信行為は、・・・ここ数年で数回はあるから嫌になる。主権者の見識もまた、同列に低水準なのだろうか。

【まとめに代えて】
憲法上の自由権や立法権をないがしろにする総理大臣を野放しにしておくと、いつのまにか、国家から我々を守る自由権が切り捨てられ、手続保障が失われ、権力に抗する手段が失われることを憂う。
このことは決して、左翼や活動家の(stereotypeな批判として持ち出される)妄言ではなく、刑事事件や憲法訴訟、国賠訴訟を手がける弁護士には、ある程度、肌身に感じられることである。私如き一私人が、無罪判決やら国家賠償やらで国家を一敗地に塗れさせることが出来ているのは、憲法がある御陰なのであり、上記のような事態ともなれば、勝ち負け以前に不当に逮捕されるのがオチだろう。

(弁護士 金岡)

【参考:国会答弁 原文ママ】

○粕谷照美君 それは学術会議の同意を取りつけないでも法的にはできるでしょうね。しかし、法律の精神そのものを本当に尊重していくという態度からは――あなた方はこれで十分努力をしたと、こういうふうにおっしゃいます。しかし私たちは、その努力はなってないと、こう判断をしているので、そこの判断が違っているんですね。だから同じことを何度も何度も、繰り返し繰り返し質問しているし、あなたの方も同じことを何度も何度も答弁をしている。全くもうすれ違いの論議にしかなっていないことを非常に残念に思っております。
さて、それで推薦制のことは別にしましてその次に移りますが、学術会議の会員について、いままでは総理大臣の任命行為がなかったわけですけれども、今度法律が通るとあるわけですね。政府からの独立性、自主性を担保とするという意味もいままではあったと思いますが、この法律を通すことによってどういう状況の違いが出てくるかということを考えますと、私たちは非常に心配せざるを得ないわけです。
いままで二回の審議の中でも、たしか高木委員の方から国立大学長の例を挙げまして御心配も含めながら質疑がありましたけれども、絶対にそんな独立性を侵したり推薦をされた方を任命を拒否するなどというようなことはないのですか。

○政府委員(手塚康夫君) 前回の高木先生の御質問に対するお答えでも申し上げましたように、私どもは、実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えておりません。確かに誤解を受けるのは、推薦制という言葉とそれから総理大臣の任命という言葉は結びついているものですから、中身をなかなか御理解できない方は、何か多数推薦されたうちから総理大臣がいい人を選ぶのじゃないか、そういう印象を与えているのじゃないかという感じが最近私もしてまいったのですが、仕組みをよく見ていただけばわかりますように、研連から出していただくのはちょうど二百十名ぴったりを出していただくということにしているわけでございます。それでそれを私の方に上げてまいりましたら、それを形式的に任命行為を行う。この点は、従来の場合には選挙によっていたために任命というのが必要がなかったのですが、こういう形の場合には形式的にはやむを得ません。そういうことで任命制を置いておりますが、これが実質的なものだというふうには私ども理解しておりません。

○粕谷照美君 私は、いまのことを思いますと、この法律を見て思い出すことは、いままで教育委員というのは選挙で選ばれていましたね。それが今度任命制に変わるときに猛烈な反対運動があったわけですね。私なんかもその先頭に立って反対した方なんですけれども、やっぱり任命制になってから大変違ってくるのですね。その与える影響とか権限とか、それから姿勢とかが全く直通になっていくわけですね、上からの。そういう意味も含めまして、学術会議の独立性というものが侵されはしないだろうか、こういう心配を持つものですから、何度も何度も念を押しているわけです。そうしますと、いままで行われた二度の国立大学長の拒否事件が起きないという保証はこの法律の中にどこに含まれていますか。どこのところを読んだら、ああなるほど大丈夫なんだと理解ができるんですか。

○説明員(高岡完治君) ただいま御審議いただいております法案の第七条第二項の規定に基づきまして内閣総理大臣が形式的な任命行為を行うということになるわけでございますが、この条文を読み上げますと、「会員は、第二十二条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣がこれを任命する。」こういう表現になっておりまして、ただいま総務審議官の方からお答え申し上げておりますように、二百十人の会員が研連から推薦されてまいりまして、それをそのとおり内閣総理大臣が形式的な発令行為を行うというふうにこの条文を私どもは解釈をしておるところでございます。この点につきましては、内閣法制局におきます法律案の審査のときにおきまして十分その点は詰めたところでございます。