「これからの刑事手続に関する研究会」の議事録が読めるようになっており、実に酷い内容が書かれていた、と先日、教えて頂いた。
https://www.moj.go.jp/content/001462059.pdf
問題になったのは第2回議事録(上記URL参照)。田口教授と椎橋教授を招いてヒアリングした回の、黙秘権の実効的な保障に関する制度設計をめぐる椎橋発言であり、曰く「取調べで黙秘すること自体が果たして被疑者・被告人の利益になるかという観点からも考える必要があるのではないかとも思います。」との発言部分である(議事録28頁)。
なるほど、酷い発言である。
署名押印の包括的拒否、包括的黙秘権行使、出房拒否と、ここ四半世紀、様々な方略が弁護上、活用されている主な理由は、自身の供述を証拠化するかどうかの万全の意思決定を行う環境、それを実行する供述環境が十分に保障されていないからである。本欄で今更に言うまでもないが、証拠は見られない、弁護人の立会がない、何故か捜査官による作文形式である、その作文のコピーを持ち帰ってじっくり検討する機会もない・・そういう危険な環境を押しつけられることに対して、せめてもの対抗策として打ち出されている方略である。
そこに目を向けることなく、黙秘しない方が有利な場面もある、と言われても、そんなの分かってますよ、としか言い様がなく、問題は、黙秘しない方が有利な場面だと間違いのない判断が出来るだけの環境保障と、供述を安全に証拠化できる環境保障の在り方でなければならない。
椎橋教授は、次のようにも述べている。曰く「刑事訴訟法上、捜査官の権限として取調べが認められているのに、(弁護人が立ち会い黙秘を助言するようになることで、取調べを断念させるようになれば、)それ自体を否定することになるというのは、果たしてそれが当事者対立構造に反しないと言えるのか」(29頁)。
弁護人不在の場の「作文」こそ、当事者非対等の象徴的存在であろう。
・・今の刑訴法が捜査段階において当事者対等主義を保障しているというのも初耳ではあるが、弁護人を立ち会わせない方が当事者対等主義に資するのだという意見も、初耳である。
論語読みの論語知らず、とは良く言ったもので、過酷な取調べの現場を知らず、抽象的に物事をこねくり回していると、「弁護人がいない方が当事者対等」のような、素人でも唖然とするような「学究」に行き着いてしまうのだろうか。
なお、この回は田口教授のヒアリングも収録されている。
田口教授は、取調べ受忍義務と黙秘権保障の相克に関し、「被疑者の取調べにおける黙秘権の保障を、法律の定めるとおり、『自己の意思に反して供述する必要がない』という正に自由権の保障を最大限に尊重することとし、従来の制度と運用を抜本的に見直すこと」を提言し(議事録6頁)、このことは椎橋教授とは異なり、問題の所在をきちんと理解されているように読める。
が、その後が宜しくない。
田口教授は、このようにすることで、被疑者の供述に依存した捜査が行えなくなり、証拠収集が困難になるから、「反射的効果として、身柄拘束期間のある程度の長期化を検討しなければならないことになります。・・例えば、2か月を原則として1回の更新を認めるとか、この原則を3か月として1回の更新を認めるなどの案も考え得ると思います。」と発言している(同)。
身体拘束できる程度の「嫌疑」が既に集まっている案件において、被疑者供述が一切得られない前提に立ったところで、どれだけ証拠収集が難航するというのだろうか・・今の最大20日間ですら、弁護人から見れば持て余しているとしか思えないような事案はごろごろしている。
供述を得られづらくするなら、身体拘束を延ばしておきましょう、という発想もまた、論語読みの論語知らず、というべき愚見であろう。いや、いかな「論語読み」とて、その身体拘束の超・長期化に耐えかねて不本意、不任意に供述を余儀なくされる事態を誘発して、その一方の柱である黙秘権保障の最大限の保障と完全に逆方向である、ということくらい、学究の過程で思い至らないのだろうか?
なんて無駄なヒアリングだ、人選からやり直せ、という読後感である。
(弁護士 金岡)

















