直接的には接見等禁止に対する「職権発動による一部解除ではなく」準抗告の話題である。その手続的な違いは本欄2017年8月2日付けで検討したことがあり、そこでは、事後の事情変更はどちらの手続でも判断されるから敢えて一部解除を選ぶ理由が見当たらない趣旨を記載した。

実際、最決2019年3月13日が、やや歯切れの悪い留保付きながらも「当審においても、前記公判前整理手続の経過等原々裁判後の事情をも考慮して原決定の当否を判断するのが相当である。」として準抗告審が事情変更を取り込むことを正面から認めたのだから、この問題は事実上、決着済みと言って良い(尤も、その後の名古屋地裁2020年1月24日決定が、包括的な接見等禁止に対して配偶者部分の一部取消を求める準抗告を不適法扱いするというトンデモ決定をしていることは、本欄2020年1月24日付けで触れたとおりであるが、裁判官の独立と裁判官の我が儘すら区別できない外れ籤を掴まされることはままあるので一々囚われるべきではない)。

さて、近時、親族部分の接見等禁止に対し例の如く準抗告を申し立てて取消決定を得ている事案があるのだが、諸事情により先に母親の方をやり(準抗告認容)、遅れて父親の方をやったという経過がある。
この程、父親の方の準抗告認容決定を得たのだが、その決定に次のような一文が含まれていたのが目に付いた。
「なお、検察官は、事後審たる準抗告審は原裁判時の資料をもとに原裁判の裁量逸脱の違法の有無のみを判断すべき旨主張するが、接見等禁止の裁判においては原裁判時に個別の者について接見等禁止の要否を検討する契機がなく、包括的な接見等禁止がされることが少なくないことに鑑み、採用できない」(名古屋地決2025年8月27日、大村陽一裁判長)。

前掲最決は、付整理手続事案で接見等禁止を「第1回公判期日終了まで」としたことを指摘して、長期にわたる整理手続中に事情変更が想定されることを踏まえて事後の事情変更を取り込んで判断すべきことを指摘した(冒頭「歯切れが悪い」と指摘した所以である)ものであるが(因みに、上記のような相当長期間にわたる接見等禁止自体を取消事由と扱い、「次回整理手続期日終了まで」に変更したような決定例もある)、上記名古屋地決は、当初決定はどうしても包括的になるのだから事後的に一部取消の必要が明らかになってくることは必然であるという趣旨を指摘したものであり、これはなかなか的確な指摘であると思う。
かねてから、包括的な当初決定には問題があると思っていたし、過去には「アメリカの大統領が刑訴法所定の要件を充たしているとでも思うのか?だから包括的な接見等禁止自体が誤りなんだ」という嫌みな書面を出したこともある。他方で、接見等を禁じるべき対象者を個別に指定する方法は現実的には困難を伴うので、実務的には、包括的な接見等禁止を認める代わりに一部取消を柔軟に認めていくのが落ち着き所となっているのだろう。

最後に件名について。
前記の通り検察官は、父親の方の一部取消に反対したわけであるが、既に母親の方で一部取消が認容されているのだから、父親の方だけ接見等禁止要件が具備されているなどということは凡そ考えがたいのであり、真に公益の代表者であるならば、漫然と父親まで包括的な禁止になっていることについて自ら率先して解消していくべき立場ではないのか、と言いたい。なにしろ包括的な接見等禁止を請求したのは検察官である。それが、母親の方の認容決定で過剰だと指摘されたのだから、どういう了見で父親の方は維持すべきだと主張できるのだろうか。
大川原化工機事件では、保釈に反対すべきではなかったと検察庁が表明したというが、社会的に散々叩かれたから嫌々謝罪しただけで、実際には何も反省していないのだなと見え透いている。過酷な外部交通制限を行わせている張本人が、例えば「準抗告審でやらなくても検察庁の方で一部取り下げる」みたいな対応もせず、一部取消に反対し続ける、そのどこに、反省があるのだろうか。刑事被告人に対し反省は口だけだと、どの口で批判するのか、まずは自分の頭の上の蠅を追うべきだろう。

今時、事後の事情変更による一部取消は珍しくもないのだが、検察庁の無反省ぶりという点で、敢えて取り上げてみた次第である。

(弁護士 金岡)