さて、名古屋高判2025年11月26日(国賠案件)に対する雑感である。
まず、現行犯逮捕自体の違法性について。
裁判所は相手にすらしていないが、高裁判決が指摘したとおり、警察官現認事案であり、被妨害者である歩行者も行きずりであることを考えると、罪証隠滅を疑うべき相当の理由は見出しづらい事案であり、出頭確保を含む逃亡を疑うべき相当の理由をどう考えるかは、改めて検討する価値があると思う。
結果論として、逃亡が懸念されたり、出頭確保に支障のある事案ではなかったのであり、そうであれば、例え免許証提示が不十分であったにせよ、軽々に逮捕に踏み切るのではなく、このままだと逮捕に至りかねないことを説明して、身元保証を十分にさせるよう努力することが、比例原則からは求められるはずである。尋問記録などを読み込む時間はなかったので、そこら辺の事情は分からないが、免許証提示が十分に期待できないとみるや逮捕に踏み切ったのだとすれば、性急に過ぎたのではないか。
次に思うのは、逮捕に対する不服申立、逮捕後の釈放手続の欠如である。
逮捕に対する準抗告が認められていないことは判例が形成した法理であるが、本件の場合、それがないために37時間もの違法な身体拘束に繋がったことは明らかである。
仮に逮捕に対する準抗告制度があれば、23日午前に接見したN弁護士は、同日中の釈放を目指し、同日中に父親の身元保証を取り付け、準抗告を申し立てるくらいしたのではないか。逮捕に対する準抗告制度や逮捕取消請求制度がないため、翌24日の勾留請求段階での釈放を待つしかないとN弁護士が判断したのだとすれば、(名古屋高裁が指摘するような職権判断による釈放を促す努力が可能であったことは、言われてみればなるほどだが、なかなか発想として出てくるものでもないので)それは制度的な欠陥に起因すると言うべきだろう。
実務家にとっては常識に属するが、「逮捕が午後だと、勾留請求は翌々日」という感覚がある(本件もそうであった)。逮捕当日、準備して、遅くとも翌日、「逮捕準抗告」や「逮捕取消請求」に至れば、一日早く釈放に漕ぎ着けられるのだから、全く違う。このような弊害がある以上、法的権利としての、逮捕に対する不服申立、逮捕後の釈放手続を確立する必要がある。
三点目。地裁判決の深刻さである。
要旨「被疑事実を否認し黙秘する態度を総合的に勘案すると、留置の必要性相当性がなくなったことが客観的に明らかとは言えない」という、その反憲法的感覚。最決2014年11月17日に真っ向から反する内容であり、(民事部所属とは言え)この水準で仕事をされては話にならない。
余談だが、先日、最高裁が、勾留却下を覆した準抗告審(東京地裁)を取り消している(最一小2025年11月27日決定)ところ、その準抗告審も相当、箍の外れたものであったようである(勾留を認めたばかりか接見等禁止決定まで付したとか)。人の身で裁判をする以上、ある程度のブレはやむを得ないとしても、擁護しようのない誤判をしてしまった裁判官を、独立の名の下に再教育もせず、そのまま仕事をさせ続けて良いものだろうかというのは、思わざるを得ないところである。
四点目。
この事件の原告(控訴人)の陳述書を閲覧したのだが、代用留置施設の環境や、職員のひどさに、焦点が当たっていたのを興味深く読んだ。
例えば、布団がじめっとして冷たかったという指摘。推定無罪である以上、その住環境は「世間並み」でなければならないはずだが、恰も「犯罪者は冷遇されて当然」という意識がはびこっていよう。
また例えば、発熱のため服を着込んだら、聞こえよがしに「おかしいんじゃないか」と嘲笑され、また、連行時に腰縄がきついと訴えたら逆に強く締め付ける嫌がらせを受けた、という下り。更に、物覚えの悪い高齢者である被収容者に対しても、あざけるような状況があったそうである。
こういうのは貴重な報告である。
(弁護士 金岡)

















