齋藤千恵裁判長の名言もとい迷言である。

数百時間に及ぶ映像記録があるとして、身体拘束中の被告人がこれを見たいという。しかし、接見で上映会を行うことは現実的に困難を伴う(巻き戻したり何なりの操作も含め週2回接見・5時間分を上映出来たとして、正味100週以上、つまり2年以上がかかる)。裁判所が拘置所と協議して、被告人が自ら余暇時間を用いて証拠の検討に勤しめる環境作りを試みるべきではないか?というのが当方の問題意識だが、裁判所は「いつになったら証拠意見が出せますか」「来年の今頃に審理を入れられますかねぇ」と、取り合う風もない。

その流れで、前記迷言もとい妄言が出た。

「被告人本人がじっくり検討したいというのは当然であり、裁判の当事者は被告人なのだから、被告人が記録を手元に置いて検討したいという以上、そのような権利を保障することは当然でしょう」と発言する弁護人に対し、「そういう権利があるかはともかく」「証拠はまずは弁護人が御覧になればよい」とのお言葉であった。

裁判官としての適性以前に、人間性を疑う。
一回、自分が捕まったら、身に染みて分かると思う。
「証拠を見たけど特に何も無かったよ」「そうですか」で、懲役二桁年の危険のある裁判を進めていくという気持ちになれるのだろうか。穴が空くほど見て、どこかに反転攻勢の手掛かりが潜んでいないか、自分で検討したいと思わないのだろうか。

本欄ではしばしば指摘しているが、我がこととして考えられないなら、裁判官としての適性はないと思うべきだろう。
そういえば、「一つの死は悲劇だが、百万の死は統計だ」という警句がある。
一事件の手続的不正義が直撃する被疑者被告人には悲劇だが、年100以上の手持ち事件のあちこちに不正義があっても裁判官から見れば統計的な事柄に過ぎないと言うことだろう。

(弁護士 金岡)