先だって予告した「刑事弁護倫理的な諸問題」の一つ目として、共犯者を一括して弁護することの当否について取り上げたい(なお、取り上げる順序に特に意味はない)。

「新時代の弁護士倫理」では、菅野・四宮・髙中の3名一致で否定である。髙中弁護士は共同相続人からの一括受任問題も引き合いに、「複数の者に対して均等・均質な誠実義務を履行することはほとんど不可能に近いという認識が広まっている」と指摘されている。
もし、複数名の言い分が少しでも食い違いを見せた場合、弁護人は、誰かの言い分を支持することになるだろうが、その時、別の依頼者の言い分を否定することになる。これでは誠実義務は尽くせない。
仮に、複数名の言い分が完全に一致しているように見えたならば、その場合、弁護人は、「誰かが言い出しかねているのではないか」という懸念を黙殺しているのだろう。およそ複数名の言い分が細部に亘り完全に一致するなどということはあり得ないし、もしそうなら、依頼の経過から考えて誰かに引きずられたり反対しかねたりという現象が横たわっていると考える必要がある。
机上の論として、複数名の言い分が完全に一致したとする。A被告人は自分が主導したといい、B被告人はA被告人が主導したという。この場合、弁護人は、A被告人が主導したと積極主張すべきなのだろうか。A被告人の弁護のみを考えれば、(検察官が言い出しもしないうちから)積極的に出すべき事情ではないだろうが、B被告人の弁護人も兼ねているとすると、積極的に出すべきことになる。結局、完全一致を想定しても、誠実義務は尽くせない。
誠実義務以外でも、双方から異なる「真実」を聞かされた段階で、その後、どちらかの弁護に専念しようにも、もう片方との関係での守秘義務違反の危険を抱え込む、という問題も当然にある。つまり、ここでも、ごく初期の段階で二進も三進もいかなくなりかねない。

結局、共犯者を一括で弁護することは、絶対に不可である、と断じて良い。仮に人手不足などの地域特有の事情があるとしても、やってはならないものは、やってはならない。経済的側面などの本質でない問題を外して、真面目に利点を考えるなら、一つの事件を完全に一つの弁護方針下に制御できる、ということは言えそうだが、本当に一つの弁護方針の下に足並みの揃う事案なら、それぞれに別の弁護人が就いても実現するはずで、別の弁護人が就いてしまうと足並みが揃わなくなるなら、一つの弁護方針の下に足並みを揃えようとしたところに無理があったと言うことになる。

この感覚には、私自身、今まで疑問を感じたことすらなかったが、古い最高裁判例では、必ずしもそういう結論ではない。
現代において通用するかはさておいて、最三小1955年12月20日判決は、共犯として起訴された共同被告人の一方の私選弁護人を第一審裁判所が他方の国選弁護人として選任したことについて、傍論として、「しかし被告人は、事後に至りこのような状況となつた場合、自己の弁護権の行使に支障を生ずると認めたときは、裁判所に対し国選弁護人の選任に異議を述べ、或はその弁護人に注意し考慮を求め、さらにやむを得なければその弁護人を解任する等の手段をとることもなんら禁じられているわけではなく、また弁護人としても弁護士法に基きその良識に従つて適正な進退をすることはむしろその責務というべきである。しかるに被告人は第一審公判の終結するまで前記弁護人の弁護権の行使に対しなんら異議不服を述べた形跡なく、・・・」として、手続違反の主張を退けた。
一方が私選契約であったという特殊性もあるのだろうが、まずいことになったら弁護人か被告人が対応すればいいじゃないか(具体的な不都合があれば、言って貰えれば裁判所が何とかする余地もある)、という発想のようだ。が、叙上の論に照らし、全く考えが足りていない。

考えが足りていない最高裁はさておき、「積極的弁護」の見地から、これを是とする主張があることには、触れておく必要があるかもしれない。(文献の渉猟には限界があるが、例えば)季刊刑事弁護50号(2007年)の特集で、奥村弁護士は、「利害対立が顕在化するまでは同時受任も可能」と主張し、その前提に立てば、受任していない共犯者に対し「なろうとする者」として接見することも可能だと主張されている。弁護人たるもの、関係者供述を確認することは当然であり、その関係者が共犯者であり身体拘束下にある場合に、一般面会では話にならないという問題意識の下に、「積極的弁護」としての限界に挑戦する論旨であろうが、流石に賛成しかねる。
この「なろうとする者」を利用した接見問題については、別途、取り上げたいと考えているのでここでは立ち入らないが、一括受任の問題点が、利害対立が顕在化する遙か以前に始まっていることを考えれば、無理がある。

この問題については、時代と共に移り変わりがある、というよりは、端から、肯定する余地はないと考える。

(弁護士 金岡)