「刑事弁護倫理的な諸問題」の二つ目として、「なろうとする者」接見、ついでに「伝書鳩」問題を取り上げたい。

「なろうとする者」の理解として、逐条系の解説は、やや狭いのではないかと思われる。選任権者からの明確な依頼を前提としない場合でも、弁護士側で、客観面主観面において何れも受任可能性があって接見を申し込む場合は、全て「なろうとする者」に該当すると考えるべきだろう。「はじめまして、誰々さんから頼まれて接見に来ました」の場合が、被疑者等において誰だろうと訝しみながらも接見には応じるという状況であっても、「なろうとする者」に該当すると解釈しなければならないことは当然である。
しかし逆に言えば、客観面主観面において少なくとも一方の受任可能性を欠くなら、その場合にまで「なろうとする者」にはならない。

典型的には、
1.民事事件の相手方が被疑者等である場合、
2.事情を聞きたい事件関係者が被疑者等である場合、
3.打合せをしたい共犯者が被疑者等である場合、
何れも、「なろうとする者」接見は不可である。
1や3の場合は、利益相反等、客観的な受任可能性がないと考えるべきであるし、2の場合は、話の弾みで「自分の依頼も受けて下さいよ」となる可能性は残るにしても、通常、申込段階で受任の可能性があるとは考えていないはずなので、「なろうとする者」接見は不可である。以上は、さほど悩ましい問題でもない。「接見」は優れて有効な固有権であるが、そうであるからこそ、そのような特権を負託された立場として、濫用にならないよう自らを戒める必要がある。時に(1~3の場合に)「なろうとする者で来い」という誘い水がかけられることもあるが、そういう手合いに応じてしまってはおしまいである。

さて、「伝書鳩」である。
「伝書鳩」と揶揄されるのは、事件本体の弁護にかかわる意思がないのに、専ら外部交通を補助するため、面会する弁護人である。弁選を出した上で、そのように振る舞う弁護士もいれば、弁選を出さずに、そのように振る舞う弁護士もいるので、「なろうとする者」問題と一括して取り上げるべきかはさておき、ここに書いておきたい。

事件本体を受任した上で、(ある接見機会においては)外部交通のためだけの接見を行う、ということに特段の問題はない。弁護人の基本的役割の中には外部交通支援もあり、接見禁止事案とそれ以外とで濃淡はあるだろうし方法論にも差異はあるとしても、外部交通支援の重要性は否定されない。しばしば「猫の餌やり問題」として議論されるが、猫の餌やりだろうと恋文の運搬だろうと、弁護人がやる必要があるなら、やる「べき」だろう。

このように外部交通支援の重要性を踏まえると、「伝書鳩」も立派な弁護活動をしている、とは言えるのだが・・(そして、事件本体の弁護人として、外部交通支援に力を割かなくて良いというのは助かると言えば助かるのだが)事件本体の弁護にかかわる意思がないのであれば、これは接見交通権の濫用と言わざるを得ないだろう。
その理由は、外部交通支援が事件本体の弁護に付属するものだから、というわけではなく、事件本体の弁護に関わらない場合、外部交通支援時に必要なスクリーニング機能が働かないからである。その伝言が、罪証隠滅の片棒担ぎになっていないだろうか、ということをスクリーニングするためには、結局のところ、事件本体の内容を十分に知る必要がある。事件本体の弁護にかかわる意思がなければ、それは期待出来ない。その結果、スクリーニングしない伝言が垂れ流しになるが、この現象は、接見交通権という「権限」を付託されている立場と相容れない。
外部交通支援のためだけに張り付くとか、或いは、「お節介な第三者」からの伝言を届けるためだけに接見する、という弁護士がいることは残念ながら否定出来ないが、そのような存在は、接見交通権の濫用そのものであり、その存立を危うくするため、許容出来ないと考える。

(弁護士 金岡)