大崎事件については、本欄2019年6月29日で、第3次再審の最高裁決定を(批判的に~というよりは、最早救いがたきものとして)取り上げたことがある。京都で修習中の2002年3月、第1次再審の地裁開始決定が出されたのを目の当たりにして刑事弁護の底力を見せつけられた(出入りしていた勉強会だか研究会だかが大いに盛り上がっていた記憶がある)という経験からも、格別、印象に残っている事件である。

さて、この大崎事件に一貫して取り組んでこられた鴨志田弁護士の「大崎事件と私」が、この3月、発刊された。
学術書ならいざ知らず、表題からして自分語りの色彩が漂うため、敬遠していたのだが、今この時代に読むべき書籍だとの推薦もあり、読んでみることとした。ついでに、再審繋がりで「積ん読」状態だった弁政連ニュース2020年4月号座談会「いまこそ再審法の改正を」と、刑事法ジャーナル2020年11月号(第66号)も読むことにした。

まずは「大崎事件と私」だが、やはり学術書ではなく一般向けの感が強いものの、(おそらく)再審事件と殆ど関わりを持たずに来た弁護士層なら興味深く読めるし、裏話も散りばめた物語好きな向きなら楽しめるだろう、というのが第一感である。著者が「最後の最後は、ヒューマニズム」「これは終生変わらぬ私の基本的スタンス」と言い切る(本書432頁)ように、良くも悪くも「ヒューマニズム」に貫かれている(ので、私には少々、合わないのだろうけれども)。
また、「ヒューマニズム」を原動力として、15年以上も、一つの事件にここまで打ち込めるというのは凄まじいの一言である。重大事件であろうとなかろうと、ヒューマニズム的に食指が動こうと動くまいと、証拠開示は徹底されなければならないし、既定の真実に向けられた立証活動に苦闘するのは刑事弁護の基本であるが、一つの、それを地で行く弁護活動が成果を生んでいることは認めなければならないだろう。

学術的な関心に引きつけて言えば、大方の再審で問題となるように、裁判所の訴訟指揮の在り方と、証拠開示、検察官抗告の問題には、本書から得られるものが大きい。
物語風の悲しさ、毀誉褒貶はどうしても目につくが、それを捨象すれば、再審手続法の不備故に裁判官次第で手続の充実度合いが全く異なる異常さへの問題提起は十二分に行われている。第3次再審の請求審において、「ネガ原本」の開示勧告、裁判所の検証的手段による証拠化、対審構造的な尋問、裁判所からの事前の質問事項の提示等がされたこと(本書142頁~154頁あたり)は、何れも、手続保障、証拠開示の在り方に照らし、手続法の不備を裁判所がなんとか補おうとした挿話として読み応え十分である。裁判官は憲法31条に忠実に仕事をしなければならないのだから、無論、通常第1審をも参考に、このような手続関与は積極的に求められているものの、当事者に種々の請求権を付与し、一義的に明確な手続法を整備すべきが本来であろう。物語として成立するほどの意欲的な訴訟指揮が存在しなければならない現状が皮肉に映る。
また、随所で言われることであるが、検察官抗告の問題性である。(正常に機能する限りにおいては)公益の代表者に異を唱える権利が必要な構造は否定しないが、こと再審開始については、開いた上で再審公判できっちりやれば良いだけのことであり(再審公判の手続法もまた、ないに等しいが、再審請求審よりは理屈の上でも対審構造を採りやすく、なんぼかましな筈である)、再審公判の結論に対する不服申立の在り方は格別のこととして、正式な手続に乗せる段階でまで検察官抗告を認める理由はないように思われる。大崎事件が、そのことを強く浮き彫りにしたことは明らかである。

以上のような議論は、勿論、巷間まま言われていることであるし、大崎事件に固有の問題ではないが、やはり大崎事件に最も強く顕現していよう。
前掲の関連論文等も、やはり大崎事件の影響が色濃い。
本欄の関心事で言えば、刑事法ジャーナルの村山論文を取り上げないわけにはいかない。村山論文は、「深刻な事案」を念頭に(冤罪に「深刻」とそうでないものがあるという発想は、いかにも裁判所的で、受け入れがたいが)、再審事件の審理の在り方を検討する中で、やはり、証拠開示に着目されている。その必要性許容性については、「審理構造との関係」で一件記録を託されているわけではない再審請求審の職権主義と証拠開示とは矛盾しないこと(これは鋭い指摘だと思う)、証拠開示のもつデュープロセス機能を真実発見のために活用すべきこと、現実に証拠開示は必要であること、の3点から論じられているが、基本的に同感である。
整理手続が導入され、証拠開示が(全面開示までの道半ばとは言え)飛躍的に前進したことで、積極的な刑事弁護、的確な反対尋問など、刑事裁判はそれなりに改善を見た。ひとり再審が、そこから外されることを容認すべき理由は無いし、ひとり再審をそこから外すと言うことは、再審における冤罪の救済を、旧態依然たる「推定有罪」「証拠隠し」の中に置き続けることを意味するに他ならない。

ということで、さしあたりは「大崎事件と私」を取り上げたのであるが(前掲弁政連は、座談会の顔ぶれからも、半分くらい大崎事件なので、割愛する)、いままさに問題とすべき再審における手続法の整備、その中でも理屈から考えて速やかに導入すべき証拠開示や一定の請求権の付与等について、本書は、切実なまでの教訓をもたらしている。再審分野の議論は取っつき悪いものも多いので、これからという向きは特に、読みやすく、問題の坩堝である本書から始めるのも良かろうと思われた。

(弁護士 金岡)