過日某所で、このような主題に纏わる議論がされていた。
考えてみると興味深く難しい問題である。

まず、問題の所在として、一口に「依頼者の意に反する弁護活動」といっても、「真犯人をかばって有罪になりたいのでそのように弁護しろ」というような、違法な方針への加担の問題は除外する。
「どう考えても賢明な選択ではないけれども違法な方針ではない。その場合に、依頼者がそうしろという場合に、弁護人はどうすべきか。」である。

さしあたり文献として見つけたのは、少々古いが「日本の刑事裁判 21世紀への展望」所収の後藤昭論文である。
「一任型」(弁護人の独立性を強調)と「訴訟行為代行型」(依頼者の意向を強調)の理念型を提示した上で、米国判例を紐解き、米国では、基本的重要性のある権利に関する問題や、訴訟結果以外に関心を有する依頼者の自律性が問題となる場合は依頼者に決定を委ねる方向に傾くことが指摘されている。
また、本邦の刑事訴訟法が、少なくとも依頼者にも弁護人と同等の権限を付与する場面が多く、依頼者が弁護人の訴訟行為を全く制御出来ないのは例外的な場面に限られると指摘され(当然、弁護人の独立性に消極に働く)、他方で一任型の弁護観が有力であるとの観察結果を示されている。

後藤昭論文は、種々のねじれ現象と言うべきものを指摘した上で、御自身の見解としては、助言を尽くした上では依頼者の意向に従うのが原則であるとし「伴走者型」を提示されている。そして、依頼者に判断能力がない場合や、死刑事案を例外とされる。
また、「伴走者型」として、依頼者の意向に(不本意にも)従わざるを得ない弁護人として、「自らは他の方針をより良いと考えていることを暗示しても良い」とされる。

例えば依頼者が不注意を認めて過失を争わない方針の時に、弁護人の法的見解としては過失を争える、というような場合、「日常的な感覚での不注意は認めつつ過失は争う」という方針に落ち着けば良いが、依頼者が「無罪主張をしてくれるな」として折り合わない場合に、弁護人はどうすべきなのだろうか(私選だと辞任一択になるだろう)。

前記後藤教授の分析を参考にすると、弁護人は依頼者の意向に従い、過失を争えなくなるだろう。国選事件においても、依頼者に「国選弁護人の弁護を受ける義務」があるわけではないとすれば、このような弁護の押しつけを否定する結論に正当性がありそうである。加えて、弁護人の方針が最善かは所詮は結果論に過ぎず、現実問題として意に沿わない弁護方針を押しつけることは後々、紛争を生じさせかねないことから躊躇いも生じる。
弁護人の不本意な立場を「暗示」することが許されるとしても、「本件は法的に見て過失に疑問の余地なしとしないが、依頼者の意向であり、弁護人としては意見を述べられない」程度だろうか。後々、不熱心弁護だったとの誹りを受けないための保険程度の意味はあるのかもしれない。

(法テラスとの契約を拒否して長く、国選弁護人の感覚は徐々に分からなくなっているが、)しかし、かかる結論は、自身の信じる「最善」を口にすることが許されない、というのが如何にも辛く、専門家の矜持にも反するように感じる。
黙って座っているだけでも辛いが、例えば先の例であれば、法的に過失に疑問があり、罪に問われるべきでない依頼者に対し、その「過失」対策を講じたこと(再犯可能性がないこと)や、反省の情を引き出す被告人質問を行わなければならない、更には過失を前提に弁論をしなければならないとすると、更に事態はひどい。依頼者の意向に逆らえないという原則は、不本意にも黙っていなければならないだけではなく、不本意にも積極的弁護を展開しなければならないというところまで含意するのだろうか。後藤教授の論文からは読み取れなかったが、もし後者だとすると、弁護人の個人の尊厳に関わりかねないので、理論的帰結としても与し得ない。

以上の通り検討してみたところでは、理論的には、十分に説明説得を尽くした上で、依頼者の意向に逆らえないのが原則であり、但し第一に自身の立場を暗示することは許されること、第二に自身の尊厳に反する積極的弁護まで強要されるものではない、というのが落ち着きどころなのだろうか。

しかし、これはあくまで理論的な結論に過ぎず、法廷の現場で運用できるかは別問題である。自分ならどうするか、といわれると、やはり自身の専門性にかけて、それが最善だと思われる弁護活動(但しそれが、客観的に見て最善との評価に耐えるものでなければならないことが前提である)をやろうとするのではないかと想像する。

(2/2に続く)

(弁護士 金岡)