非常に心外な準抗告棄却決定である。

まずは引用しよう(一部事案の特徴を抽象化)。

「原裁判後に弁護人が選任され、被害弁償金を用意したこと、関係者に接触しない旨の誓約書を提出したことなどの事情はあるものの、原裁判時の事情に照らし必要性を肯定して被疑者を勾留した原裁判に誤りがあるとは言えない」(村瀬賢裕裁判長ら)

この書きぶりを素直に受け取る限り、原裁判後の事情を踏まえて勾留要件を再検討したようには読めない。
原判決後の事情(被害弁償金の確保などの事情)は「あるものの」(考慮対象ではないから)、「原裁判時の事情に照らし必要性を肯定している」原裁判は正しい、と述べているだけである。

少し文章を弄ってみよう。
「原裁判後に真犯人が出頭した事情はあるものの、原裁判時の事情に照らし必要性を肯定して被疑者を勾留した原裁判に誤りがあるとは言えない」
一分の隙もない論理である。
真犯人が出てくる前は犯人だと思えたから勾留した、文句あるか。そして、準抗告審は原裁判時の事情で判断するから、真犯人が出てきても原裁判の正しさは損なわれない。準抗告棄却。見事と言う他ない・・。

冗談はさておき。
準抗告審で原裁判後の事情を考慮できるかには、一応の議論はあるが、実務的には原裁判後の事情を考慮して準抗告審の判断がなされていることは、はっきりしていると認識している(肯定する高裁判例などもある)。例の「事例99」でも、こんなことは作成過程で殆ど議論されなかったし、集積事例を通して、敢えて採り上げるべき問題であるとは判断されなかった(特定の裁判官が妙に固執していたという情報はある)。

判例で準抗告審の事後審化が進んでいるが、そのことの余波として、事後審に徹する=原裁判後の事情は考慮しないという発想なのだろうか?
勾留取消との棲み分けを純化するなら、一つの見識ではある。
しかし問題は、通常の実務の取扱を前提に、準抗告審において原裁判後の事情を積み上げる努力をしている被疑者と弁護人に対し、準抗告審で原裁判後の事情は考慮しませんという不意打ちを行うことの是非である。
御自分が、御自分の美学に基づき裁判をするのは、迷惑をかけない限り自由だけれども、今回の場合、はっきりと迷惑である。美学に基づく裁判は、自宅でこっそりとやって頂きたいものだ。
運悪く特異な事後審純化路線の裁判官に出くわしたばかりに、原裁判後の事情を積み上げた準抗告審が無駄になり、勾留取消で出直す羽目になる。依頼者の人生が弄そばれているという感じしか受けない。

こんな風に言われるなら、はじめから勾留取消請求をしていればよかった。というか、少なくとも何分の一かの確率で原裁判後の事情は考慮しない裁判官に当たるなら、勾留取消も一緒に出しておくべきなのだろうか。
弁護士人生の中でも十指に入る心外さである。

(弁護士 金岡)