岡口判事の分限裁判が報道されている。

本欄では、かつて、「裁判官の自由~SM趣味は恥ずべき事か?」と関連記事で岡口判事の言動を取り上げたことがあるが、別に同判事と気脈を通じているわけでは無い。ただ、ともすると不気味な沈黙を守ることを美学としているようにしか思えない(余談だが、私はいわゆる「公平らしさ論」は大嫌いだ。腹の中で何を考えているか分からない裁判官から公平にやっていますよと言われて信じるほど愚かでは無い。)裁判所について、色々と本音を垣間見られる好材料が提供されるので、時に取り上げたくなる。

さて、今回の分限裁判は、公園に置き去りにされた犬の所有権を巡る訴訟で勝訴した、(原文に当たっていないので正確な表現かは分からないが)一度は置き去りにしたのだろう側に対し、当該事件の報道記事の出典と合わせ、「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?3か月も放置しておきながら…」等とツイートしたことを巡るものである。

【9月13日追記 だいたい読み終えた岡口氏のブログ情報によれば、「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?」等のくだりは、事件被告の側の主張を要約して紹介したものであり、これが岡口氏の意見として誤読された、ということである。東京高裁の申立書では、あたかもこれが岡口氏自身の投稿であり、それにより事件原告側の感情を傷つけた、とされているが・・誤読に過ぎないとなれば、本件は、(“公訴事実”の限りでは、)裁判官の茶化すような発言、表現の自由を巡るものですらなく、結果的に不快に思わせる発言になってしまったことに対し身分上の不利益措置を取るという破天荒な案件ということになる。従って、以下の記述は、「仮に本件ツイートが岡口氏の発言と見なされることを前提としても」(東京高裁の報告書はそういう論調である)という留保付きの議論になる。】

裁判官が私人として、判決に感想を述べることは、当然に許されるだろう。学術論文を書くなら原文を参照すべきだが、私人として感想を述べる分には、「私が前提としている事実認識はこれですよ」と分かる報道記事の出典を参照出来るようにしておけば十分であろう(というか私人だと原文閲覧の前提情報を得ることも困難かと思われる)。揶揄というか茶化す感じの発言も、私人として行う分には構わないだろう。かちんとくる、むかっとくる表現が飛び交うのは、社会においては無理からぬことで、その程度で逐一、口封じを図っていては表現の自由が成り立たない。
資料によれば(岡口氏のブログが最も詳しいが全部読み切るのは大変だ)、高裁長官は原文に当たらずツイートしたことを批判したようだが、私人として感想を述べる分にはそこまでしなくてもよいだろうから、的外れも良いところだと思う。
このように考えてみると、何が問題とされているのか、本質が分からなくなる。

裁判所側の主張を見る限り、上記勝訴側に対し「捨てたんでしょ」「放置しておきながら」と言い放ったことが、当事者を傷つけた、というのを最も問題視しているように思えるが、「報道を見る限り自分にはそうとしか思えないんだけどな」と論評することが社会的に許されていないとは思われないし、現職の裁判官だから駄目というのもおかしいだろう(裁判官が確定判決を批判したからと言って、どうということもない。)。想像を巡らせると(原文に当たっていないので)、ひょっとすると判決中では「捨てた」というのが否定されていて、それ故に勝訴側がかちんときたのかもしれないが、報道限りで言うと、という前提なら仕方のない話だろう(原文に当たらず報道限りの情報に論評されることが許されないとすると、例えば国会を傍聴せずに質疑を批判することも許されないのかとなる。)。
報道の限りでと言う手法や、裁判官という主体性が問題なので無ければ、twitterという媒体が問題なのだろうか。確かに、居酒屋や日記で茶化すのに比べれば、広がり方が大きいとは言えるだろうが・・そもそも私人として許容範囲内の茶化す発言は、それがtwitterという媒体を介したとしても基本的に許容範囲内に止まるだろう。不当と言えない表現行為は、どこまで広がろうとそう簡単に不当に変化したりはしまい。まして原典付きでretweetされる分には。
結局、(遅まきながら岡口氏のブログを読み始めた段階だが、)騒ぎ立てている方がどうかしているという現状認識である。色々と苦々しく思う当局が、雰囲気を作り上げてここぞとばかりに攻撃している匂いを感じる。

興味深いこととして、岡口氏は、裁判手続も批判されている。
曰く、「申立書にはどのような理由で傷ついたか書いていない」とのことであり、これに対し、裁判所側に釈明を求めたが、裁判所側は応答せず審理が終結する見通しだと言うことである。
裁判所側が押し黙ったまま不利益な手続がどんどんと進んでいくと言うことは、とてもよくあることだ。特に刑事弁護士なら日常茶飯事だろう。そして、不利益処分を課す側は、そのような痛みにはとても鈍感である。不透明なまま不利益処分がどんどんと進んでいくことの痛み、苦しさは、不利益処分を課す権限を有する裁判官こそ、最も知っておくべきだというのに、現実が真逆であることには恐ろしさすら覚える。
今回の分限裁判については、多くの裁判官が関心を持ってみているはずだから、少しは我が身のこととして、不透明なまま不利益処分が進んでいくことの問題性に思いを致すきっかけになればいいのだが。

(弁護士 金岡)