報道によると、精神科医が性犯罪被害者の心理状態について「・・・と複雑な心理状態を説明。これらが長年、性虐待を受け続けた被害者によくある傾向であることを述べた。」との証言をなした事案がある(最近の事例で報道もされているので調べればすぐに分かるが、当該事案についてとやかく言いたいわけではないので特定は避ける。以下は飽くまで一般論の議論である。)。

この種の専門家の知見について、証拠能力の分水嶺はどこにあるのか、ということを時々、考えることがある。

「長年、性虐待を受け続けた被害者によくある傾向」を語るには、まずもって「性虐待を受け続けた被害者」が説明した被害経験及び心理状態が真実である必要がある。しかし、当該精神科医の担当した「性虐待を受け続けた被害者」が、実際にそうであるのかは、当該精神科医にも証明しようがないことである。ひょっとしたら冤罪の主張がされている事案の患者さんかもしれないし、もっと言えば無罪判決が確定している事案の自称被害者に過ぎないかも知れない。
過日、似た傾向のある事案で検察側証人となった法医学者に対し「それは、事件当事者一人一人に尋ねて回ったのか」と尋問したところ、当然「いいえ」という答えだったのだが、上記の件に準えるなら、「長年、性虐待を受け続けた被害者によくある傾向」について知見を得るための不可欠の前提である、「性虐待を受け続けた被害者」という対象群が適切に得られているか、確認のしようもないところにいかがわしさを感じる。

次の問題としては、「長年、性虐待を受け続けた被害者によくある傾向」を知る上で、統計的に、十分な対象群が適切に得られているかが検証されているのだろうか、ということである。被害態様も、被害者の年齢も性格も千差万別であるという時に(それでも、同じく人類である以上、動物実験に比べれば相対的に変動幅は小さいのだろうが)、例えば40人から聞いて、そのうち27人が同じようなことを述べた、という場合、それは「傾向」を語るのに十分と言えるのだろうか。
統計学の知見を借りれば、十分な対象群の数は、設定可能なのかも知れない。しかし、その場合に、上記の件に準えるなら、当該精神科医の担当した患者数が何人で、各々の説明内容について個別具体的に検証されているだろうかというと、裁判の現場では全く行われていないし、弁護人が本気を出しても、そこまでの公判準備は行われないだろう、というのが経験的に言える。

要するに、「長年、性虐待を受け続けた被害者によくある傾向」について知見を語るべき精神科医の証言の証拠能力について厳密に考えると、
1.対象群の数の検証
2.対象群を構成する個々人の個性の検証
3.対象群を構成する個々人の具体的説明内容の検証
4.対象群を構成する中に事実関係が争われている者がいないかの検証
が必要で、これが尽くされない時に(少なくとも弁護人が裏付けを含めた検証を要求しても行われない時に)果たして証拠能力が肯定されるべきなのかと考えると、相当に疑問がある。
そんなことをいったら、専門的知見の提供を受けられないだろうという批判が聞こえそうだが、科学の名を借りた、単なる主張が法廷に持ち込まれることと比べた時、どちらを選択すべきかは自明だろう。
現在進行中のある事案では、薬理作用について専門家証人に「科学的なエビデンス」を明示するよう要求したところ、「アメリカにおける社会現象」と「マウス7匹による他の薬物での実験例」が挙げられたという経験をしているが、この2つから薬物の作用について人間に対する科学的説明が得られるとは些かも思われない。そういう、科学の名を借りた単なる主張が法廷に持ち込まれないようにすることが、誤判を防ぐための証拠能力という装置に忠実なのではないかと思う。

(弁護士 金岡)