「地獄部と天国部」とか「地獄部と地獄部」とか、「あの裁判官に当たったら有罪に決まっている」等々、勝因なり敗因を裁判官その人に求めるというのは、自らの訴訟活動の巧拙や説得力不足を棚に上げる感があり、宜しくないと思う反面、それが歴然とした事実であるから始末に負えない。
本欄で実名を挙げて批判している裁判官(ら)は、名古屋の刑事裁判を「下には下がある」と実証して見せたT裁判長にせよY裁判長にせよ、往々にして、その類である(そうではないが当該事案では批判せざるを得ない対応をされた、という場合もあるにはあるので念のため)。

さて、古田宜行弁護士が御自身の事務所通信で紹介されている本年1月3日の記事は、「今日の準抗告担当部は?」と題したもので、要するに、12月31日に満を持しての勾留準抗告(9日目)を申し立てるも蹴られた上にたっぷり10日の延長決定をされ、それに対する準抗告を申し立てるに際し裁判体の吟味を真剣に考え依頼者にも了解を取り・・という、もの悲しくなる事例報告である。
https://ftlaw.jp/communication/%e4%bb%8a%e6%97%a5%e3%81%ae%e6%ba%96%e6%8a%97%e5%91%8a%e6%8b%85%e5%bd%93%e9%83%a8%e3%81%af%ef%bc%9f/
結論として延長に対する準抗告が認容されたので先ずはめでたしであるが、決定文の提供を受けると、9日目の決定と延長取消決定とで、(僅か1月1日、2日という、およそ全く捜査が進展しなかったであろう二日間を挟んだだけであるというのに)真逆の決定になっていることが良く分かる。

9日目の準抗告棄却決定はこうである。「弁護人は、捜査機関による証拠の収集状況や被疑者と本件マンション居室所有者との間で示談が成立したこと、被疑者が現時点においては本件犯行を認める上申書を作成していること等を指摘しているものの、これらを踏まえて検討しても、上記の判断(※2号、3号、勾留の必要性を全て肯定)」は左右されない(名古屋地裁2020年12月31日付け決定、宮本聡裁判長)。
その3日後の延長取消決定はこうである。「現時点における証拠の収集状況に加え、被疑者が共犯者を通じて同室を借りた事実を認める旨の上申書を提出したこと、同室の所有者と被疑者との間で示談が成立したこと等を考慮すると、・・在宅での捜査で足りる」(名古屋地裁2021年1月3日付け決定、辛島明裁判長)。
「適正な処分をするにはあと10日必要」と主張した検察官率いる捜査機関が、1月の1日2日の間に、裁判所の心を動かすだけのめざましい証拠収集活動をしたということは、先ず有り得ない。してみると、両裁判体は、全く同じものを見ているのに、結論は真逆である、ということである。9日目の証拠収集+示談+自認供述でも釈放できないと考える裁判体と、1月1日2日を挟んでの証拠収集+示談+自認供述で在宅相当と考える裁判体とがある、となれば、選ぼうとするな、と言う方が無理だろう。

折しも、私の担当していた在留特別許可案件でも、(お馴染みではあるが現物を目にするとやはり)驚愕の判決を受けたところである。
論点は、お母さんを送還すると小1のお子さんも送還することになることと、自由権規約や児童の権利条約上のお子さんの人権をどのように考えるか、というお馴染みのものであり、マクリーン判決に囚われてか国際人権法をまともに理解できない日本の裁判官が国際的に笑われている(但し伝聞及び文献上の指摘)ところであるが、名古屋高裁2020年12月24日付け判決(始関正光裁判長)は次の通り説示した。
「これらの条約は、上記のような国際慣習法(※いわゆる外国人受入の自由)を当然の前提としているものと解されるのであって、各締約国の国内法に基づく外国人に対する退去強制手続を制約するものではないというべきである。」
小1のお子さんを送還することになる行政処分の適否を判断する上で、関係する国際条約が一切の制約原理にならないと言い切るというのは、なかなかのものである。無知蒙昧もここまで行くといっそ、すがすがしい(ある弁護士からは、翻訳して国際的に公表するだけの価値があると皮肉を言われた)。

本稿の主題に戻ると、これとは真逆の判断をしている名古屋高判は複数ある。「また藤山コートか」といわれないように吟味するなら、例えば加藤幸雄裁判長による名古屋高判2013年6月27日は次のように説示する。
「もっとも,国家が,自らの判断として,あるいは外国や国際機関との交渉の結果,上記国際慣習法に基づく権限を謙抑的に行使することを決意し,外国人にも,その性質に反しない限り,我が国の国民と同等の権利を付与することは,憲法上(前文,98条2項)はもちろん,国家主権の観点からも何らの問題も生じないと解されるところ,我が国が批准した「経浞的,社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和54年条約第6号)」12条1項が,「この規約の締結国は,すべての者が到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を有することを認める。」と定め,同条2項が,「この規約の締結国が1の権利の完全な実現を達成するためにとる措置には,次のことに必要な措置を含む。」とし,「(d)病気の場合にすべての者に医療及び看護を確保するような条件の創出」を掲げていることなどに照らせば,医療に関する利益が入管法上も尊重されるべきことは当然であり,法務大臣等が上記裁量権を行使するに当たり,重要な考慮要素とされるべきものと考えられる。」

前者のような裁判体で勝てといわれても、食あたりでも起こしてくれないと無理じゃないの、というのが偽らざるところであろう。後者のような判断枠組みで、それでも敗訴するならまだしも、人権条約が制約原理にならない等という裁判体で侵害的行政処分の適否を説いても無駄というものではないか・・。自分が裁判当事者だとして「裁判体運だけで終わりだね」という事態に納得がいくはずもないし、国家権力は謙抑的であるべきであり、同じ間違うなら侵害的でない方に間違う制度設計にするためには、特定の法領域限定でも、「裁判体運」を人権侵害に転嫁するような事態を回避できる制度的な保障が欲しいものだと、年明け早々から思わされている。

(弁護士 金岡)