(6月末に執筆したあと、特に理由もなく放置していたが、時期遅れにならないぎりぎりのところで完成させた原稿である)

集団的自衛権を巡り、憲法を巡る報道、意見表明が活発である(集団的自衛権問題についての私の立ち位置がどうであれ)憲法が日常生活に浸透していく好機であることは間違いなかろうと思われる。この国の最高規範にして、国家権力から市民の自由を守るための契約が憲法である以上、日常生活に浸透していないこと自体がおかしいのであるが、私自身、弁護士になるまでの憲法知識など、ごくごく僅かであったのだから、そんなものだろう。

さて、この問題は幾つもの切り口から批判できる(結論的に言えば、私は、自衛隊を違憲と考えているし、集団的自衛権の行使も憲法9条に反し違憲だと考える)が、憲法を基盤に訴訟活動を行う弁護士にとり、決して許容できないのは、「現状にあわないから憲法解釈を変える」という発想であろう。憲法に拘束される国家権力は、憲法にあわせて立法し、その立法の下で行政を行わなければならない。憲法が現状にあわないなら、憲法の制定主体である国民に諮り憲法改正に向けた投票を行うしかない。これを立憲主義で説明しようと、それ以外の説明であろうと構わないのだが、ともかく、憲法の構造は、制定主体を国民としていること、国家権力は拘束される側であること、従って、いかに現実問題として不都合であっても国家権力が柔軟に変更するなどとい言うことは性質上、許され得ないことを、何れも当然のこととしている。
国会議員は、このような憲法の性質を、きちんと学んでいるのだろうか。大学の一般教養並みの議論の筈なのだが、報道される国会の論戦(3名の憲法学者が揃って違憲の指摘を行ったことで話題の憲法調査会は議事録を読んだ)を見る限り、与党議員がこのことを弁えているとは凡そ、思われない。
某紙の投書欄で、国会議員にも試験を設けるべきだとあった。明治時代のような納税要件や、現代におけるように票集めが上手いとか人心掌握に長けていることが、憲法の素養を担保するものでないことは勿論であるから、憲法の試験はあった方が良いだろう。立候補の届け出を締め切ったあと、一次試験として憲法の試験を行い、合格者だけが実際に被選挙人になれるようにしたら良いのではないか。

以前、本欄に記載したGPS問題は、実のところ、根っこの構造は同じである。立法と司法に縛られる側の行政である捜査機関が、任意捜査として実施し、自ら、プライバシー侵害の許容範囲を定め、かつ、条件を守っているか審査するという手法は、刑事訴訟法に服し、法律の条件を守り、裁判所の審査を受けなければGPS捜査をできないことが「現状に見合わない」と考えているのだろう。
(悪い意味で)純真な市民感覚の目には、捜査の必要性を前面に押し出し、膿むことなく犯罪者に迫ろうとする捜査機関が頼もしく映るかもしれない。しかし、そうだとすればそれは、この国で憲法教育が欠如していることの証左だろう、と思う。権力という強すぎるものを野放しにすることは、いつか来た道への逆戻りである。

(弁護士 金岡)