愛知刑事弁護塾では、外部講師をお招きしての勉強会を継続的に実施している。これまでに招聘した外部講師は、メディア関係者、刑事弁護士、精神科医など、既に多様な顔ぶれである(今後、個人的には、理系の研究者をお招きしたいと思っている)。何名かの人脈を集め、また、講師の側でもやり甲斐を感じて頂くには、当塾のような媒体は有効である。

件名について。
この程お招きした刑事弁護士に、裁判員裁判での工夫をお話し頂いた。内容を概括的に言うと、裁判員の心理を先読みして、弁護人に親和性を持たせていくような工夫と纏められるお話しであった。

裁判員裁判開始当時、プレゼンテーション技術に注目が集まったと記憶している。私自身、京都弁護士会の有志が行っていたプレゼン研究会に出入りさせて頂いたし、同有志の研究成果は季刊刑事弁護に掲載され書籍化されている。
プレゼンと一口に言っても、いわゆる視覚資料の使い方や、話す内容の厳選(良く知られている「3つにする」等)、話し方(抑揚や視線等)、身なりの問題等々、多様であり、一絡げに議論するのは宜しくないが、乱暴にいえば、総じて、プレゼンテーション技術が裁判結果を左右するということに受け入れがたさを感じている。

法的知識や尋問技術、整理手続での立ち回り等の巧拙が事件の帰趨を左右することは、実務法曹の性質上、受け入れられる事象である(尋問技術も、割り切っていえば、あるべき事実を取り出す等という意味で、証拠を作る営みに過ぎないから、実務法曹の仕事の範疇である)。
しかし、話し方や身なりまでが事件の帰趨を左右するとなれば、「喋る役の弁護人は劇団員に任せたら?」「検察官の演技が上手いと冤罪が増えるの?」「ネクタイの色に何の意味が・・」と、不信を持つ(そういえば、かつて弁護士会で主催した模擬裁判の市民裁判員が、「靴を磨いていない人の話は信用できない」という感想を漏らし、そんな不心得者が跋扈しかねない裁判員裁判に魅力を感じろという方が無理だと思ったものだ)。

裁判官も人の子、弁護士の立ち入る振る舞いに好感度は上下しようし、無意識的に反発し受け入れられない前提で証拠評価を試みたりもしてしまうだろうことはわかるが、他方でそうはいっても実務法曹である以上(そして上で破られたくもないだろうから)、「大事な点が17あります」と言われれば17点とも処理しようと取り組むだろうし、(多分だけど)弁護人の足下に気を取られて弁論が頭に入らないまま判決を書く、などということもないだろうと思う。
それになにより、一審で、弁護人が、厳選した話題について見事なプレゼン技術により完璧な説得力を発揮し大いに好感度を獲得したとしても、控訴審や上告審では、その見事なプレゼン技術も好感度も全く伝わらないから、厳選した話題だけが取り残され、それは、厳選したと言うよりは、論理的な緻密さを欠く、薄っぺらいものに映りはしないだろうか。

私という弁護士が、登録7年目にして始まった裁判員裁判に対し、もともと否定的な考えを持つため、そういった「認知バイアス」が公正な評価を妨げている可能性はそれなりにあると思うし、時代の変化について行けていないだけなのかもしれない(プレゼン技術について全くなおざりにしているわけではないが)。
また、捜査段階、整理手続段階を通じて、最終弁論に用いたい事実関係、論理の構想を整理し尽くし、最終弁論では(あらゆるとまでは言わないが考えつく範囲での)反対意見まで目配りして緻密に全部を説明し尽くす技術に力を注いできたため、前記したようなプレゼンが勝敗を分けるかも知れないことに心理的にも同調しきれないことは、おそらく事実なのだろう。
他方において、くだんの講師である刑事弁護士が、プレゼン技術も駆使した弁護実践を行い、然るべき成果を上げていることや、事例研究の中でも「なるほど、裁判員が弁護人を好ましく思うだろう雰囲気が出来上がっていたのだろうなぁ」と思わせられる報告を聞くにつけ、無碍に切り捨てられない魅力を感じたのも、また事実。
自分の型を磨き上げることと、進歩に貪欲であることは両立するはずなので、また少し考えを整理してみたい。

(弁護士 金岡)