先日、季刊刑事弁護126号が届いた。
お目当ては別の記事だったのだが、偶々、目に付いたのが、札幌高裁の逆転無罪を検証した企画の田岡論文である。「交通事故鑑定の信用性を否定し、前方注視義務違反の過失を認定した原判決を破棄~」という表題には当然、惹かれるものがある。
で、内容を読み進めると、その排斥された交通事故鑑定の鑑定人は山崎俊一氏であった。山崎鑑定人には聞き覚えがあり、私が担当した盛岡の交通事件で、差し戻し審において登場した鑑定人である。
同じ鑑定人が登場して、しかも(盛岡の交通事件と同様に)排斥されているとなれば、そこには問題性を感じざるを得ない。
田岡論文が紹介している排斥理由は、(複数あるが、うち、フロントガラスの損壊状況と車速との相関性があるとした部分については、)「個人的に行った実験の積み重ねであって、論文として発表したこともないというのであるから、同じ専門領域に属する専門家らの批判や検討にさらされておらず、客観的に確立された法則とはいい難い」と指弾されているものである(札幌高判2025年3月18日、論文137頁)。
かたや、盛岡の交通事件で山崎鑑定が排斥された一文を引くと、(これは車間距離保持義務の距離の設定に於いて、一定の余裕時間を持たすべきかどうか、持たすべきだとしてどの程度の時間とすべきかが問題となった鑑定部分であるが、)「(山崎鑑定の主張した)余裕時間の長さを1秒から2秒と定めることについては、自動車事故解析について豊富な経験を有する専門家の見解として一定の尊重に値するとしても、その専門分野において一般に支持されている基準があるものでも客観的な実験データによる裏付けがあるものでもない・・(採用には)躊躇せざるを得ない」というものである(盛岡地判2022年3月25日)。
要するに、どちらの裁判でも、当該部分における山崎鑑定は、客観性のない個人の主張を述べただけで、科学性がない、とされている訳である。
前掲田岡論文では、司法研究の「ジャンクサイエンス的」の一文も引用して、一般的信頼性が確立されていないというなら、証拠能力の領域で処理すべきだと指摘されているが、全く同感であり、関わりのある弁護人として言わせて貰えば、こんなものに防御活動を強いる労力を払わせ(別記事で報告したが、山崎鑑定人の著書を購入した費用は費用補償の対象にされなかった)、冤罪の危険をもたらすべきではない。
検察庁が、どうして、何度も山崎鑑定人を起用しているのかは想像するしかない。
しかし、盛岡地判がいうように「自動車事故解析について豊富な経験を有する専門家」という触れ込みであっても、肝心の中身が、個人的な意見に過ぎず科学的検証を経ていないものを何度も担ぎ出すというのは、無責任の極みだし、悪く想像すれば、検察官に都合の良い意見を科学的裏付け無しに書いてくれるからではないのか(科学的裏付けがないと分かっている同業の専門家は断る)、と思いたくもなる。
私はかねてから、公人に加え、「いつも捜査側の依頼を受けるような特定の民間医師」の類も、公的に監視されるべきであり、データベース化するなどする必要があると提唱してきたが(https://www.kanaoka-law.com/archives/1110)(https://www.kanaoka-law.com/archives/1886)、今回、図らずも、山崎鑑定を顕名で検証してくれた田岡論文(確認はしていないが、個人名を出すからには慎重に検討し、顕名にする必要性・相当性があると判断したものであろう)を受けて疑似的なデータベース化が成立したわけである。
今後、山崎鑑定については、こうした過去の裁判例で検証され、個人的な意見に過ぎないと排斥されている部分があることも踏まえて、科学的に弾劾していくことが出来る。
(弁護士 金岡)

















